いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

SNS時代の「ささやかな善意」のゆくえ

こんな「受験シーズンならではの、ちょっといい話」が、僕のところにもTwitterでリツイートされてきました。


受験のときとかって、やっぱりいろいろ不安な気分にもなりますし、こういうちょっとした励まって、嬉しいものなのだと思います。
ちょっとしたメッセージ+お菓子ということで、あまり「重すぎる応援」でも、「度が過ぎる特別扱い」でもありませんしね。
この機だけで行われていることなのか、それとも、ANAが全社的に推進している「気くばり」なのかはわかりませんが。


ただ、僕はこのTweetを読んで、「ああ、いい話だな」と思うのと同時に、こういうふうに、SNSで拡散されてしまうと、「良心」とか「善意」って、ちょっとぼやけてしまうような感じもするんですよね。
「受験生を応援しているANA」をアピールする効果はありますし、こういうのって、CMで受験生を応援している様子を流すよりも、誰だかわからない受験生が、SNSで流したのが拡散されたほうが「現実感がある」のも事実です。
要するにエールを送ったのも拡散したのも「良心」とか「善意」からの行為のはずなのに、結果的に宣伝になってしまうのが、ちょっと気持ち悪いのです。


ステマ」だとは思わないし、こういう「受験生がんばれ!」っていうのは、おそらく、伝統的にANAで行われていたサービスなのでしょうけど、それがこうして「いい話」として伝わってしまうと、とたんに「こうやってSNSで広められることを『期待』していたんじゃないか?」というような、邪念が湧いてくるのです。
わざわざTwitterで拡散しなくても、ANAのホームページの「お客様の声」かなんかに、直接、ありがとう、とメールすれば済む話ではないか、とも思いますし。


いや、たぶん、これって、宣伝目的とかじゃなくて、「良心」や「善意」に基づくものだとは思うんですよ。
その機のスタッフだって、ぜひ拡散してほしい、ということで、あんなエールを送ったわけじゃないはず。
でも、こんなふうに、「いい話として拡散され、結果的に宣伝になってしまう」と、「そのサービスを(義務として)やるべきだ」「うちの機でもやらないと、負けてしまう」というような雰囲気になるんじゃないか、と。
そして、あまり心がこもっていない「サービス競争」が続けられるようになってしまう。


SNS時代って、ちょっとした善意とか良心みたいなものが、思いがけず広範囲に拡散され、評価につながってしまうこともあるのです。
それは、善意を拡散しているのか、それとも、「見返りを期待しない善意」を、世界から駆逐していってしまっているのか。


その一方で、電車内で泣いている赤ん坊と母親に「うるさいから降りて」と言った人の話が、世界中に拡散されて、見ず知らずの人々からバッシングされてしまうこともあるわけです。
それは「息苦しい相互監視社会」なのか、「そういうプレッシャーがかかることによって、傍若無人なふるまいを抑制することができる」のか。


いまの時代って、多くの人が、「相手からされたことをSNSで拡散することで、(うまくいけば)それなりの影響力を行使できる」のです。
誰でも『ミシュラン』の覆面調査員のような存在になることができる。
サービスを提供する側からすれば、けっこうストレスは大きいのです。
拡散する人による偏りも、少なくないのだけれど、それはなかなか伝わらないし。

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