いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

ブログは「弱虫な表現者のためのもの」だった。

参考リンク(1):打たれ弱い奴はブログとか辞めたほうがいいんじゃないですか(山本 一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース


このエントリに関しては、山本さん忙しそうなのに、「はてなブログ」というコップの中の嵐までウォッチしているのか……と感動はしましたが、書かれていることは当たり前のことなんですよね。

ある種、ブログを続けるというか、第三者へ向けて意見を書き続ける、表現をし続けるというのは、常に批判を受けることを前提とするものであって、それが嫌で、直面したので「心折れました」とか言っているのはヘタレ以外の何者でもないと思いますね。

まあ、作用・反作用の法則、みたいなものではあるのでしょう。
打てば、響く。
その響いてきたものが、自分の求めていたものかどうかはさておき。


そもそも、ブログに限らず、「自分が表現したもの」に対する思い入れがあるのは当たり前なのだけれども、その思い入れは、赤の他人と共有できるものではありません。
Twitterでは、こんなことを呟きました。



他人の評価に基準を置くのなら、他人からどう見えるかを想像したほうがいい。
そんなに難しくありません。自分がふだん、赤の他人のブログをどんなふうに見ているか、を思い浮かべればいいだけのことです。


ただ、僕は基本的に「ネガティブコメント」は嫌いですし、「イヤなら放っておけばいいのに」とも思っています。
「釣りブログ(わざと読んでいる人を不快にさせて怒りや反発を招き、それによって話題を集めるブログ)」は、「ネガティブなブックマーク」が大好物で、それによって「話題のエントリ」になり、さらに見物人が集まってきます。
で、なかには「なんでこんなくだらない、あるいはムカつく内容のブログが、こんなに人気があるんだ!」と、つまり、話題になっていることそのものに、怒りを増幅させる人もでてくるのです。
システム的に考えれば、怒りのあまりブックマークして「ネガティブコメント」をつけるより、無視したほうが、「宣伝に貢献しなくてすむ」はずなのですが。


すみません、今日はここまでが前置きです。
山本さんのエントリを読んでいて、僕は、以前書いたこの話を思いだしました。
参考リンク(2):個人ブログとSNSと「弱虫な表現者」 - いつか電池がきれるまで

10年前のネットで個人サイト、あるいはブログを書いていた人には大まかに言って2つのタイプがあって、ひとつは「とにかく自分自身をアピールしたい!」というタイプ、もうひとつは「何かモヤモヤしたものがあって、それを誰かに話したいのだけれど、知り合いには恥ずかしくて話せないので、匿名でネットにボトルメールのように流したい」というタイプだった。


前者は、個人サイトがブログになり、SNSになっても、とくに大きな影響は受けない。
まあ、フォントいじりが流行らなくなったくらいのものだ。


後者にとっては、SNSというのは、ちょっと敷居が高い。
彼らは自分が書いたものを「目の前のあなた」に読んでもらいたかったわけではなくて、「お互いに知らないし、知る必要もない誰か」に読んでもらいたかったのだ。


雑誌に投稿したり、自作の詩を路上で売るためには、時間も手間もかかるし、他人の目にさらされることもある。「結果」が出るのを、気長に待たなければならないことも多い。
それなりの「表現者としての覚悟」が必要なのだ。
個人サイト、個人ブログの時代に僕が面白いと感じていたのは、そういう「表現者としての覚悟」を持たない人でも、ネット上ならコストが低いので、気軽に発表できるようになったことだ。
「自分が書いたものを誰かに読まれるなんて恥ずかしい」
そういう人たちでも、ネット上になら「公開」しやすかった。
なかには、倫理上の問題があるものも少なくなかったけれど、そういった「危ないもの」だけではなく、「カッコいいこと」や「正しいこと」あるいは「自分についての話」を他人に語ることに恥ずかしさを抱く人も少なくないのだ。
これまでは、「書くこと」+「表現する勇気」が必要だったけれど、ネットは、「弱虫な表現者」たちを舞台に押し上げていった。

思えば、あれは「特別な時期」だったんでしょうね。
今は、ネットに何かを書くことそのものが「ひと昔前のラジオの深夜放送」から、「テレビのゴールデンタイムの番組」に押し上げられてしまったようなもので、もう、後戻りはできないのでしょう。
これからは、「抱えきれない表現欲をおさえきれず、他人の反応に負けずに突き進んでいける覚悟がある人」か、「割り切って、お金を稼ぐ手段として『炎上上等』でやっていける人」しか、ブログを書けない時代になっていくはずです。


でもなあ、僕としては、こうして「弱虫な表現者たちの文章」を読む機会が失われることが、とても寂しいのです。
あれは、インターネットがアングラなものから一般的なものになる、そのごくわずかな移行期にだけみられる、流星みたいなものだったのか。
「表現欲も覚悟もある人」の文章を読みたければ、書店にはクオリティの高いプロの文章が安価で積まれていますし、ネット上にも「無料で読めるプロの文章」が溢れているんですよね。


表現欲と覚悟だけがあって、「切実に書きたいこと」を持たない人と、金銭欲だけがあって、炎上狙いのエントリを書き続ける人ばかりが残っていくのだとしたら、そんなブログの世界は、あんまり面白くないと思いませんか?

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