いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

ペンギンやイルカを観てもらえない水族館を、つくっていませんか?

人間って、愛着が強くなりすぎると、ついつい、「Aに対する自分の視点」=「Aに対する他者の視点」だと、思いこんでしまいがちです。
自分の子どもは、他人も同じように「かわいい」と思ってくれているはず、という錯覚。
僕はこんな話を思いだすのです。


「水族館の通になる」(中村元著・祥伝社新書)より。

 初めて訪れる水族館では、あるいは水族館が好きな人ほど、途中で時間がなくなって、一番楽しみにしているコーナーをじっくり見ることができなくなってしまう。残念なことに、水族館の最後のクライマックス展示コーナーを、足早に駆け抜けてしまう人はかなり多いのだ。


 大きな理由は、水族館のアリの巣のように曲がりくねった通路に入ってしまうと、建物のどこにいるかが分からなくなり、距離感や時間間隔を失ってしまうからだが、それに輪をかけて、水族館を作った人の意図と、観覧者の気持ちに大きなズレがあることを知っておくといい。


 水族館を作った人たちのほとんどが考える水族館の構成はこうだ。「最初のコーナーは序章、そこからコーナーを進むごとに驚きや面白みを強くしていき、一番のクライマックスは最後に持ってくる。そうすればもっとも満足度が高くなるはず」と。


 ところが、客の立場になって考えれば、水族館にやってくるまでの長い道のりと時間のことがあって、それがすでに序章なのだ。一番最初に見るコーナーなり水槽なりは、すでにクライマックス。空腹時の肉まんと同じで、どれほどショボくてもおいしいのだ。


 しかもその直前に払った決して安くない入場料のことが頭に残っているから、しっかりもとを取らなくてはならないと思う。子どもが、ペンギンだイルカだとお目当てに急ごうとすると、「しっかり見なさい!(もったいないから)」と、叱っているお母さんをよく見かけるだろう。


 つまり、水族館側と観覧者の見学時間の想定が、まったく逆転してしまっている。だから、入り口付近は、どの水族館でも一番混み合う場所になっている。


 これを解消するには、ひとつには、まず館内マップで、館内のことをしっかり把握すること。実際、水族館に入ったとたん、水槽でなくマップを見るのは、だれもが時間が惜しいように感じるのだが、そこを曲げてマップをじっくり見ていただきたい。


 さらに、心と時間に余裕があるなら、まず最後までざっと見て、それから気になるところに戻る、という方法をとると、時間配分が楽になるだけでなく、見落としも少なくなる。


 これは水族館に限ったことではなくて、美術館とか動物園でもそうですよね。確かに、入り口からすぐの展示物は、けっこう混みあっていることが多いのです。「どうしてこんな珍しくもなさそうな展示に、こんな人だかりが…」と思いつつも、せっかく来たのだから、水槽ひとつたりとも見逃すまい!と意気込んで、人ごみの中に突入してしまいます。


 でも、そういう情熱というのは、展示を半分くらい観ていくうちに次第に薄れてきて、途中からは「疲れてきたし、もう飽きたから、とりあえずザッと流す」という感じになりがちです。
 この文章を読んでいると、水族館の「創り手」と「観覧者」の感覚のズレというのが、よくわかります。

 
 現実にはありえないことですが、僕がもし水族館の設計をするとしたら、やっぱり「最初にちょっとした見せ場を作っておいて、少しずつ盛り上げていって、最後にクライマックスを…」というような創り方をすると思います。それが、いちばん「ドラマ性を高める演出」だという意識があるから。
 その一方で、観る側は、水族館に到着した時点で、「冒険」はかなり進んでいる状態です。
 ああ、やっと水族館までやってきた、と。
 歩いて5分で水族館、なんて生活をしている人は、ほとんどいないでしょうから。


 「序盤の展示物」の時点で、観覧者の気持ちは、もう、かなり盛り上がっている。
 でも、設計している側は「まだウォーミングアップ」のつもり。
 結局、設計している側が想定したクライマックスにたどり着いた時点では、観覧者の身体も集中力もピークを過ぎてしまっているのです。
 「もう足が疲れた」とか「時間が無い」という状態で、彼らは「見せ場」にやってくる。
 そして、肝心のクライマックスの展示物は、あまり熱心に観てはもらえない。


『なぜ本屋に行くとアイデアが生まれるのか』(嶋浩一郎著/祥伝社新書321)という本に、映画監督・ゴダールのこんなエピソードが紹介されています。

 ヌーベルバーグの旗手として知られるフランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダール曰く「映画は15分だけみればわかる」そうです。実際、ゴダールは冒頭の15分を見ると、映画館を出て次の映画を見にいっていたといいます。


「15分で映画がわかるのか?」「映画代がもったいない」
僕だってそう思います。
しかし、さきほどの水族館の話で考えてみると、「観客に見てもらえる映画」かどうかを判断するためには、15分で十分なのかもしれません。
「途中から盛り上がってくる作品もあるはず!」と思って、これまで観てきた映画を反芻してみたのですが、「最初の15分はつまらないけれど、最終的にはすごく面白く、感動した映画」って、ちょっと思いつきませんでした。
 

「相手の立場で考えて」「顧客の視点で」って言う人は多いけれど、その中で、「ちゃんと自分の思い入れを捨てられている人」って、どのくらいいるでしょうか?
僕だって、自分が頑張ってやった仕事や書いたものが褒められると嬉しい。
ただ、それを書いたり創意工夫したりしてきた自分の努力を知っていると、ついつい、そのデキを「過大評価」しがちになります。
これだけ頑張ったのだから、みんなも感心してくれるのではないか?いや、そうであるべきだ、と。


しかしながら、実際にやってくるお客さんは、たくさんの候補のなかから、その「僕がつくったもの」に辿り着いている時点で、かなり消耗しています。
「手間をかけてここに辿り着いたのだから、それなりのものを見せてくれるんだろうな」と。
どうしても、「面白い」と感じるハードルは上がるのです。
「無料だから」「個人だから」と言っても、ネットの世界では、「無料+個人」にもたくさんの選択肢がありますし、「無料+プロ」だって少なくありません。
つまらないものを見せられると「時間を損した」という気分にさえなります。
たとえ、無料であっても。


いろいろ厳しいことを言われることもありますし、誹謗中傷の類を正面から受け止める必要はないのですが(というか、そういうものには関わらないほうがいいです)、自分が生みだしたものに対して「期待」するとき、この「水族館の設計者と観覧者の関係」を、ちょっと思いだしてみてください。


観覧者は基本的にワガママなものなんだけれども、そこで「お前らのワガママには、付き合ってられん!」と考えるのか、それとも「向こうの立場からすれば、ワガママなのが当たり前なのだから、相手の基準に合わせて、工夫してみる」か。


もちろん、万人に受け入れられる答えなんてありはしませんが、このギャップについて意識することは、リスクを避ける意味でも、けっこう大事だと思うのです。


水族館の通になる―年間3千万人を魅了する楽園の謎 (祥伝社新書)

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なぜ本屋に行くとアイデアが生まれるのか(祥伝社新書321)

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