いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

彼女が本当に訴えたかったのは「正しさ」ではなく、「淋しさ」だったような気がします。

参考リンク:”正しくあろうとする”人と”正しさを強要する”人がいるって話 - バンブルビー通信


こういう「自分の体験から、何かを引き出そうとしているエントリ」が好きです。
自己啓発書の「偉い人がみんな同じことを言っているライフハック」なんかより、よっぽど面白いと思う。


閑話休題。


このエントリを読んで、最初に思ったのは「なんでこの校長室と事務室に殴り込んだ女性は、過去問をやらなかったのだろう?」ということでした。
「それは卑怯なこと」だと考えていたのでしょうか?
開設2年目の学校で、それまでの先輩たちのデータの蓄積が無い状況下なら、そして、同じ人が教えているのならなおさら、「試験対策として、昨年の過去問を解いておく」のは、「当然行っておくべき、試験対策のひとつ」だとしか思えないんですよね。
そもそも「過去問を見るな」という前提が共有されていたわけでもないし、高校を卒業して試験に合格した人が入るような学校であれば「試験対策には、過去問を解くことが有用である」ことは理解しているはず。
事前情報として「今年も過去問通り」という情報が流れていたり、過去問そのものが一部の学生にだけしか入手できない、という状況にあれば、話は別なのでしょうが……


僕は試験を解く側にも、作成する側にもなったことがあるのですが、作成する側になってみると「落とすため、選別するための試験を想定しているのでなければ、本当に理解しておいてほしい重要なポイントというのは、ある程度限られている」というのがわかります。
専門学校の一つの科目の定期試験レベルならば、なおさら。
わざわざ去年と異なる問題をつくるために、大事なポイントを外して、トリビア問題をつくるのでは、本末転倒だとしか言いようがないわけで。
まあだからといって、「全く過去問と同じ」というのは怠惰だと言われてもしょうがないでしょうけどね。
多少は問題を入れ換えたり、選択肢の言い回しを変えたりは、最低限すべきだとは思う。


あれこれ考えているうちに、僕は自分の学生時代のことを思いだしました。
大学にもやっぱりスクールカーストみたいなのがあって(狭い専門大学ならなおさら)、「情報を握っていて、試験のときは先輩経由ですぐに過去問をゲットしたり、『ここが出るらしい』なんていう『裏情報』(ガセが多かったのですが)を得ているグループ」がいたんですよね。
彼らは、試験前まで「ほとんど勉強していない」ことを半ば誇らしげに語り、みんなで飲んだり遊びに行ったりし、ときには試験を落とし、そしてときには「一夜漬けなのに」単位を取っていきました。


その一方で、僕のような「地味で目立たず、交友関係も狭い学生」は、彼らを眩しそうにみながら、「過去問こっちにもまわして……」と、なかなか声をかけられず、自分で勉強して乗り切ろう、と決心しつつも、やっぱり不安で、ギリギリになって友達の友達から過去問をコピーさせてもらったり、優秀な学生のノートのコピーをみせてもらったりしたものです。
これって、プライドが高かった、というか、コミュニケーション下手だった、だけなんですよね、今から考えてみると。
でも、当時は「オレにもコピーさせて!」という言葉が、なかなか口から出なかった。


この「殴り込んだ人」は、看護師、あるいは薬剤師の資格をすでに持っている人で、プライドがすごく高かったのだろうな、と思います。
年齢差もあって、うまく輪に入り込みずらかった面もあるのではないかなあ。
そんな疎外感が基盤にあって、そこに「自分にとって不利な条件でのテスト」が行われたことが、爆発のきかっけになってしまった。


いや、僕だって学生時代には「あいつらはいいよな、みんなでつるんで情報を回してて」なんて嫉妬していたんですよ。
自分のコミュニケーション能力の低さを、棚に上げて。


当時、頼んでも「お前になんか過去問貸さないよ」とか「ノートのコピーなんてとらせない」と言ってきた人は、誰もいませんでした。
そう、本当は「敵」なんて、誰もいなかったのです。
僕が自分で勝手に「敵」をつくっていただけで。


講師の側だって、「なるべく合格させてあげたい」と思っていたはずです。
これはある知り合いの劇画原作者に聴いた話なのですが、彼が某専門学校で講師を頼まれた際、そこの偉い人に「先生、試験は、ある程度過去問を踏まえたものにしていただけると助かります。うちの生徒のレベルだと、ちょっと難しくなると、不合格者ばかりになってしまうので……」と言われたそうです。
東大や京大で研究成果を競うわけでもない、「普通の人が生きていくための資格」をとるための専門学校レベルでは、ペーパーテストというのは「現場で危険なことをしない、最低限の理解を確認する」ためのものでもあるのです。


学校側からしても「生徒は過去問をみている」「先輩のノートをみている」ことは百も承知。
もちろん、資料があれば合格できる、っていうほど簡単なものではないのですが、試験というもののつくられかたを考えると、資格試験レベルでいちばん効率的な勉強法って、「まず過去問をみて、要点や出題傾向を解析する」ことですからね。過去問そのものが出なくても、試験問題に出るくらい重要なところであれば、その周辺が出題される可能性は高い。
専門学校に来る年齢くらいまでの「受験経験」があれば、そのくらいは理解しているべきであり、もし「過去問だけをやって高得点をとるのは、自分の将来のためにならない」と判断しているのなら、「自分でその科目の勉強をしっかりやって、それに加えて過去問も押さえておく」だけのことでしょう。
僕が知っている「本当に優秀で真面目な学生」たちは、ほとんどみんなそうしています。
中には「過去問なんてやらなくても、つねに満点」なんていうツワモノもいるんですけどね、ごく稀に。


もしかしたら、この「殴り込みに行った生徒」が怒っていたのは「試験問題の不誠実さに対して」だけではないのかもしれません。
この人が過去問を解くことを良しとせず、自ら入手しないことを選択したのか、それとも「まわってこなかった」のかは、この文章からはわからないのですが、「みんなの情報の輪のなかから、スポイルされてしまっていた自分」に苛立ってもいたのかな、という気がするんですよ。
「自分は年長者で、資格も持っている。こいつらより上じゃなければいけない」というプライドと、年長者なのに負けてしまう、ということへの怖れ、そして、クラスの輪のなかから自分が外れている、ということを突きつけられた淋しさ。
「チェッ、私も過去問やっておけばよかったよ!」って、みんなに愚痴のひとつもこぼせれば、たぶん、いろんなことがうまく回ったはずなのです。
「言ってくれればよかったのに!」と、過去問もまわってくるようになったかもしれないし、みんなは彼女の「人間らしさ」にホッとした。
でもさ、それができないのが、人間ってやつなんだろうな、とも思うのです。


以上は、これまでずっと、クラスの中の最少数派閥の中になんとか入れてもらっているくらいの綱渡りの連続で、ギリギリまで「過去問まわして」って言えなかった僕の勝手な想像です。
もう20年も昔のことなので、いまの学生にはあてはまらないところが多いかもしれませんが、なんだか昔のことをいろいろ思いだしたので、書いてみました。

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