いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「ネットで憂さ晴らしをしていた頃」の自分へ

僕は何度か、サイトを閉鎖、あるいは休止したことがあります。
僕にとってはサイトって大事なものだけに、ネット上でのトラブルのみならず、プライベートで問題が起こったときにも「自分の存在をネットから消してしまいたい」とか思い詰めてしまうことがあるのです。


書いて公開するというのは、それなりにエネルギーが要ることなので、その気力が無い時、あるいは、「ネット上から消えますよ」というサインを出すことによって、誰かに励ましてもらいたいとき。


以前のネットは、そういう「個人のネガティブな感情の表明」に対して、いまよりはもう少し感情的・あるいは好意的な反応が得られていたと記憶しています。

でも、いまは、「ネガティブな感情」を表出しても、誰も慰めてはくれない。
いや、むしろそういう人や行為は迷惑だ、と見なされる。
受け手としては、僕自身もそう感じますしね。


いまは、ネガティブな感情が自分に降り積もっていくときには、かえって、サイト上での日常を手放さないほうが良いのだろうな、と思っています。
あとは、極力「ネガティブな表明」を避けること。
悲しいときや、イヤなときって、ついつい、そういうネガティブな感情をネットに漏らしたくなるじゃないですか。
でも、それが生むのは、ネガティブな堂々巡りや、無視されることによる、さらなる絶望だったりするわけです。


だから、悲しいとき、つらいときほど、ネットでは強がって、楽しいことを語り、冷静に物事を判断しているフリをします。
不思議なものでね、ウソでもハッタリでも、ポジティブなことを書いていると多少はポジティブな気分になるし、なによりも、ブログやツイートを読んでくれる人たちに、ネガティブを伝染させない。


ネットで愚痴ったり、悪口を言ったりすると、ストレスが解消されるのだと僕は思っていたけれど、そうじゃなかった。
そこに生まれるのは、自己嫌悪や、言い争いや、憎しみでしかなかった。


日常を保つためには、努力が必要なのです。
自分の心の中はさておき、表に出る部分では、なるべくネガティブな振る舞いを避けること。


現実世界では落ち込めないから、ネットで憂さ晴らしをするんだ、と考えていました。
でも、それは間違っていた。
ネットで誰かを責めても、自分が浮かび上がれるわけじゃない。


自分にウソをついてでも、ネットで「くじけない人間」を演じることによって、日常生活の僕は、ネットでの自分をトレースし、少しずつ回復していく。


落ち込むことすら許されない世界なんて、あまりにせつない。
それでも、ネガティブに浸ることは救いにはならない。
みんな、誰かを慰めるためにネットにいるわけじゃない。

絶望しているからこそ、笑え。

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