いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

大島優子さんの『悪の教典』事件と、ある映画監督のツイートについて

参考リンク(1):「高額ギャラをもらってるのに」AKB48大島優子の『悪の教典』批判騒動に、関係者の怒り収まらず - 日刊サイゾー


これ、僕は最初、「宣伝戦略の一環として、大島さんに不快感を表明させたんだろうな」と思っていたんですよ。
この記事では、「予定外の反応」だとされていますが、鵜呑みにもできません(サイゾーさんだしね)。



ただ、この大島さんの事件に関して、映画監督の白石晃士さんが、こんなツイートをされていたのが気になったのです。


これも含めてステマ、とかいう話じゃなければ、白石さんは、「大島さんは以前、自分がつくった大量殺人の描写もある『オカルト』という映画を楽しそうに観てくれたから、(同じように大量殺人の描写がある)『悪の教典』に嫌悪感を示すはずがない」と考えておられるようです。


ちなみに『オカルト』は、こういう作品のようです。
参考リンク(2):『オカルト』白石晃士監督インタビュー(映画芸術)



僕はつねづね、ホラー映画やサスペンス映画などの「残酷描写のある映画」というのは不思議なものだな、と思っていました。
いや、残酷描写そのものが不思議というより、それを観る人たちのスタンスが不思議というか……


「虫も殺せないように見える女の子が、グチャグチャのホラー映画大好き」なんていうこともけっこうあるんですよね。
僕が知っているホラー映画好きの有名人といえば、中島らもさんと荒木飛呂彦先生なのですけど、先日、『らもトリップ』という映画のDVDを観たんですよ。
そのなかで、らもさんをよく知る人たちは、「あの人をひとことで言うなら、『常に弱いものの味方』だった」と言っていました。
でも、らもさんは、弱い人がグチャグチャになるようなホラー映画が大好き、なんですよね。


ホラー映画好き=残酷な人かというと、必ずしもそうじゃない。
僕の観測範囲では、むしろ、大人しい「オタク気質」の人のほうが、ホラー好きは多いような気がしています。


荒木先生は『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』という新書を出しておられるのですが、その中で、荒木先生は「ホラー映画」をこのように定義しておられます。

それでは、いよいよ幕を……という前に、自分流に解釈した「ホラー映画」なるものについて、改めて説明しておきます。最初に述べたように、「観客を怖がらせるために作られた」映画。それが何よりもまず、僕にとってのホラー映画です。


 当たり前と思われるかもしれませんが、人間の在り方を問うための良心作だったり、深い感動へ誘うための感涙作だったりというのは、結果としてそれがどんなに怖い映画であっても逆にホラー映画とは言えません。ひたすら「人を怖がらせるために作られていることがホラー映画の最低条件で、さらにはエンターテイメントでもあり、恐怖を通して人間の本質にまで踏み込んで描かれているような作品であれば、紛れもなく傑作と言えるでしょう。つまり「社会的テーマや人間ドラマを描くためにホラー映画のテクニックを利用している」と感じさせる作品よりも、まず「怖がらせるための映画」であって、その中に怖がらせる要素として「社会的なテーマや人間ドラマを盛り込んでいる」作品。それこそがホラー映画だというわけです。


この新書のなかで、荒木先生は、ホラー映画の作り手たちを、大勢紹介されています。
『ブレインデッド』は、『ロード・オブ・ザ・リング』のピーター・ジャクソン監督。
死霊のはらわた』は、『スパイダーマン』のサム・ライミ監督。
『28日後…』は、『スラムドッグ$ミリオネア』のダニー・ボイル監督。


「ホラー映画」というのは、低予算でもアイディアや見せ方次第で新しい表現が可能で、眼の肥えた「ホラー映画マニア」に鍛えられるという、まさに「映画を作りたい人間の登竜門」でもあるのです。


だからこそ、「カネもコネもない、新しいクリエイター」たちが、ホラー映画で一旗揚げようと押し寄せてくる。


単に「怖いのが好き」なだけではなく、そんな「創りたい人たちのエネルギー」が、荒木先生や、らもさんを「ホラー映画」に引き寄せていた魅力なのではないかと思います。


『オカルト』に大島さんが不快感を抱かなかったのは、そこに「残酷さ」ではなくて、「創造性」を見出していたから、なのではないでしょうか。
園子温監督の『冷たい熱帯魚』とかも、観る人をかなり選ぶような内臓描写が続くのですが、観ていると、むしろ引きつった笑いが自分に浮かんでくるのを感じてしまいました。


それと比較すると、『悪の教典』というのは、もっと商業的というか「作品を話題にするための残酷描写」です。
ストレートに言えば、「金のために、生徒を虐殺する先生の映画をつくった」とも言えます。
それはそれで、現代をうつす鏡、とも言えるんですけどね。
大島さんが不快だったのは、「残酷描写」そのものよりも、こういう手法の作品が、大規模に全国公開されてしまうという社会に対してだったのかもしれないな、と僕は思っています。
そして、「そんなに酷いのなら、観てみたい」と、かえって興味を持つ人も多いだろうな、と感じています。


「ホラー映画や残酷描写が好きな人」=「酷薄な人」じゃないんだよね。
もちろん、そういうタイプの人もいるだろうけれど、ホラーやサスペンスというジャンルを下支えしているのは「新しいものに興味がある人」が多いんじゃないかな。
大島さんは、たぶん本当に「『悪の教典』が不快だった」のだと僕は思っています。
そして、「ホラー映画耐性」があるからといって、『悪の教典』を平然と観られるとはかぎらない。

実際は、大島さんの反応は「不快なものを観たい人のための映画」としては、これ以上はないプロモーションになったと思いますけど。


ちなみに、僕自身はやっぱり苦手なんですけどね、残酷描写。

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