いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

人って、本当に「何も言えなくなるとき」がある。


僕のツイッターのタイムラインで、こんなツイートを見かけた。
ほんと、NHKや大手マスコミは、原発事故後、自分たちの安全第一、ということで早々に遠くに避難するという根性無しっぷりを白日のもとにさらしてしまったのですが(しかし、根性をみせて被曝をおそれずに報道するということが良いのかどうか、僕にはなんともいえません)、これを読んで、僕はなんだかとても悲しくなってしまったのです。


この小学生の男の子に「すごいじゃん」って言った番組スタッフにとっては「他人事」だったのかもしれない。
だから、こんなことを「笑いながら」言えるのだ。


……でもね、こんなふうにも想像してしまうんですよ。
もし自分が被災地に言って、小学生の男の子を前にして、同じような言葉を聞いたら、なんて答えればいいのだろうか?って。

「いや君、それは違う。気にしなくなったからといって、放射能による汚染は続いているし、君の健康は、将来にわたって損なわれる可能性がある。悪いのは国や東電だ。そして、お金のために原発を誘致した地元、そして、それを許容してきた国民全体の責任でもある。だから、「気にならなくなった」なんて言うのはおかしい。目を覚ましてくれ!」

もしかしたら、こういう「正しさ」が期待されているのだろうか?
だとしても、小学生男子に、何ができる?
親を説得して、引っ越しさせる? 反原発運動をするように、説得させる?
いまもそこに住んでいる、あるいは、住まざるをえない人には、それぞれの理由があるのだ。
この子だって、「気にならなくなった」と言っているだけで、「もうだいじょうぶ」なんて言ったわけじゃない。

僕はあの事故以来、原発には反対だ。
原発を再稼働させないまま(残念ながら、もうすでに再稼働している原発もあるけれど)、なるべく早期に氏膳エネルギーへの転換をはかっていくべきだと考えている。
それは、コスト的にも不可能な話じゃない。
そもそも、使用済み核燃料を処理するノウハウもないまま、原発を稼働しつづけているなんて、子孫への犯罪だとしか思えない。


とはいえ、いま、そこにいる子どもたちに対して、どうすればいいのか、と考えると、うまく答えが出せない。

NHKの取材者に好意的すぎる、と言う人も多いだろうけど、もし、僕が現場にいて、この小学生の話を聞いたら、「すごいじゃん!」とか「強いんだね」「がんばれよ」っていうような、月並みの褒めたり励ましたりするような言葉しか出ないような気がするのだ。
人って、本当に「何も言えなくなるとき」がある。
それが、あまりにも深刻で、どうしようもない事態であればあるほど、「うまいこと」や「正しいこと」なんて言えなくて、ただ押し黙るか、月並みの「がんばってね」「御愁傷様でした」みたいな、つまらないことしか言えなくなるときがあるのだ。

「取材者」としては、失格だと思うし、これは、放送すべきではなかった、と僕も考える。
でも、そうやってけなげにふるまう子どもに対して、第三者が、たとえそれがマスコミの取材者であったとしても、かけられる言葉が「すごいじゃん」でしかなかった、というのは、なんだかすごくせつないし、それこそが、いまの状況の深刻さををあらわしているような気がしてならない。


本当に、あのとき、どんな言葉をかけてあげればよかったんだろう?

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