いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「北海道男児不明事件」で、男の子が無事保護されて思ったこと。

dd.hokkaido-np.co.jp


朝、車のなかで「行方不明の7歳の男の子(と思われる子ども)が発見された」というニュースを聞いたときは、正直、「いや、まだ誤報かもしれない。そう簡単には信じないぞ」と身構えてしまいました。
続報で、どうやら間違いないらしい、あの置き去りにされた男の子だ、ということがわかって、「よかったなあ」と車の中でひとり呟きました。
そして、なんだか胸がいっぱいになりました。


うちにも7歳の男の子がいて、「しつけ」に悩んでいます。
山中に置き去りはないとしても、子どもからすれば「(心情的に)置き去りにされた」と感じるような行動を取ったのではないか、と思い当たるところもあって、なんだか、他人事だとは思えなくて。


他人事だとは思えない、と言いつつも、こうして1週間も捜索が続けられていると、僕のなかに、暗い疑惑が湧き上がってきてもいたのです。


「親は、本当にあの場所に『置き去り』にしたのだろうか?」


映像でみると、あんな山の中に……と思いはするのだけれど、現代の科学捜査の凄さを間接的に見聞きしていると、そんなに手がかりも見つからないものなのだろうか?と疑念を抱いていたのです。
本当にあの場に7歳の子どもが放置されて、5分後に姿が見当たらないような状況であれば、なんらかの痕跡が残っているのではないか、と考えずにはいられませんでした。
警察犬が何も反応しない、なんてことが、あるのだろうか?


こういう事件で、ありがちな展開として、「実は男の子は別の場所で亡くなっていて、それを隠蔽するために、行方不明になったというストーリーをつくりあげようとしているのではないか?」とか、考えていたんですよ。
その「疑惑」は、見つからない、手がかりがない日が積み重なるとともに、深まるばかりでした。


うちの子と同じ、7歳の男の子に無事でいてほしい、元気でいてほしい、と思っていました。
それはまぎれもない真情です。
その一方で、「家族を疑う気持ち」を抑えることはできませんでした。
もちろん、そんな黒い疑惑を他人の前で表に出すことはなかったけれど。


ネットをみると、同じように「疑惑」を抱いていた人が少なからずいたんですよね。
「僕だけじゃないんだな」と思っていました。


大和くん発見のニュースを聞いて、本当に嬉しかった。
映画『オデッセイ』を見たときに、「この宇宙飛行士をひとり救うためのお金で、貧しい国の子どもが何人救えるだろう?」なんて、ちょっと考えてしまったのを思い出しました。
大和くんの捜索費をワクチンにしたら、どのくらいの子どもの命を助けることができたのか。


ところが、こうして無事に見つかった、というニュースを観て、僕は心の底から、「良かった!」と喜んでいるのです。
そして、「これ、両親が何か隠しているんじゃないか?」「家宅捜索をしたほうが早いんじゃないの?」と考えていた自分を、恥ずかしく感じているのです。
なんで、そんなふうに思ってしまったのだろうか?
お前は『名探偵コナン』のつもりなのか?と、少しだけ自分を嘲笑しました。


世の中には「わかっているつもり」で、「わかっていないこと」がたくさんあるし、世界は陰謀に満ちあふれているわけでもない。
警察犬や科学捜査の力も、常に万全ではないし、子どもは自分の力で生き延びるための最良の方法を選択してみせたのです。


だからといって、これを単なる「ハッピーエンド」や「美談」にしてはいけないわけで、僕も自分の子どもに苛立ちを感じたり、「しつけ、という名目で八つ当たりをしたくなったとき」には、この事件のことを思い出すつもりです。
これは、あくまでも「ものすごく幸運だった事例」であり、「奇跡」でしかない。
一瞬の「こんなものなんて、もう要らない、壊してしまえ」という衝動で、多くの人は、一生後悔し続けることになる。


だからこそ、大和君が生きていてくれて、本当によかった。
黒い予想が外れてくれて、本当によかった。
わかったフリをして疑うことが、「賢さ」だと思いこんでいた自分が恥ずかしい。


これから、置き去りにした親の問題が、あらためてクローズアップされるとは思うけれど、あまり過剰なバッシングをしたり、多額の捜索費を請求したり、というのはやめてほしい。
人間がやることには責任が伴う、それは間違いない。
でも、これで親が責められたり、経済的に苦境に陥ったりすれば、せっかく生きて帰ってきた大和君のこれからの人生にマイナスになってしまう。
これで親が捜索費による借金地獄にでも陥れば、大和君だって幸福にはなれないし、かえって親からも疎まれるかもしれない。
そもそも、僕はいまでも、この事件が他人事だとは思えないのです。
うちの周りには、あんな自然環境が無いだけだったのかもしれない。 
だからこそ、この事件を「運が良かった」「大和君の生命力があった」で片づけてはならない。


捜索に携わった関係者の方々、本当におつかれさまでした。
僕は特定の宗教を信じてはいないけれど、今回は皆様の「祈り」みたいなものが通じたのではないか、そんな気がしています。


ご両親・親族の皆様、どうか、このとてつもない幸運を、忘れないで。
こんな事件は、これでもう、最後にしましょうね。


生きてるだけで、丸儲け、なんだよね。
でもそれは、失ってみないと、なかなか実感できない。


大和君、おかえりなさい。


北の無人駅から

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