いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

『週刊朝日』の休刊についての雑感


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週刊朝日』休刊か……
僕が生まれた頃からずっとあった週刊誌ですし、高校の図書館にも置かれていて、そのときにはけっこう読んでもいた記憶があります。

西原理恵子神足裕司さんの『恨ミシュラン』には、「これが『週刊朝日』に載るのか」と驚いた記憶があるのですが、思えば、僕が『週刊朝日』をよく読んでいたのは、『恨ミシュラン』が連載されていた1992〜1994年くらいまでで、あれから30年経ったのだなあ、と感慨深いものがあります。
あの時点で、「これが連載されるのだから、『週刊朝日』もかなり(部数、人気的に)危機意識を持っているのだな」と思っていたのですが、むしろ、よくあれから30年近く続いてきたものです。
その後、週刊誌界を席巻したヘアヌードブームにも乗らず、『週刊文春』『週刊新潮』のようなスクープ力もなく、それでも部数を減らしながらここまで発行されてきたのは逆にすごい。


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これは1年くらい前の記事、データなのですが、2000年代後半、インターネットで情報を得るのが主流になってから、多くの週刊誌(あるいは雑誌全般)は、大きく部数を減らしていったのです。
 

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出版科学研究所によりますと、2021年の週刊誌の国内販売額は825億円とピークだった1995年からおよそ8割減少しています。


 国内販売額、部数の低下は、広告で得られるお金の減少にもつながっていましたし、読者も高齢化して、広告の効果も期待薄になってきた。
 仕方ないというか、これまでよく頑張ってきたなあ、というのが正直な印象です。

 個人的には東海林さだおさんの『あれも食いたいこれも食いたい』がどうなるのかが気になります。
 あのエッセイは、まさに「『週刊朝日』の象徴」みたいな感じで、「毒にも薬にもならないように見えるけれど、続いていて、記録し続けていることそのものが価値になっている」と僕は思っているのです。
 書店で文庫本になっているのを見つけると手に取りたくなりますし、「何か読みたいけれど、あまり気分が変動するようなものはきついな」というときに、東海林さだおさんのこのエッセイはちょうど良いのです。これは、僕の人生で、ずっとそうだった。

 1937年生まれの東海林さんの年齢や、いくつか病気もされていることを思うと、これを機にひとまず幕が引かれるのか、別の媒体で続くことになるのかはわかりませんが(書籍としては、おそらく、根強いファンがいて売れ続けていると思うので、出版社側からのニーズはありそうです)、昭和の終わりから平成、令和の日本の食文化をリアルタイムで記録した貴重な史料とも言えそうです。
 初期のこのエッセイを読んでいると、今ではみんなが普通に食べているものが「珍しい食べ物」として語られていたり、家族の食卓での団欒の風景が描かれていたりするんですよね。東海林さんが自分で料理をしている回も多いし、「孤食文化」のルーツのひとつとも言えるでしょう。


 そういえば、最近、職場に某有名雑誌からかメール便が送られてきたのです。
 それは「あなたの病院をうちの雑誌で紹介しませんか?」という内容で、「専門のライターがあなた(とその病院・クリニック)を取材し、雑誌でアピールし、患者さん集めに繋げます!」と書かれていました。
 ちなみに「取材協力費」は、僕の月給の半年分くらいだったので、「送り先間違ってるだろ!」という感じだったのですが。

 たしかに、「その道の権威」風な扱いで『スプリングセンテンス!』に載れたら、一生の記念にはなるかもね。


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https://www.bunshun.co.jp/Portals/0/documents/shukan-bunshun/shukan_ishinikiku_20230112.pdf


 もちろん「PR」とか「これはタイアップ広告です」とかがどこかに明示される形にはなるのでしょうが、「専門家へのインタビューの体裁で、記事と判別しづらい広告」みたいなものは、これだけではないはずです。月刊の『文藝春秋』とか、分厚くて、記事っぽい広告がかなり多い。

 いまどき、紙の雑誌なんて時代遅れだし、誰も読まないのは事実なのでしょう。
 それでも、いま50代以上の「雑誌文化全盛期」を経験してきた世代には、ある程度の「権威感」はありそうです。
 
 僕も紙の雑誌は、この1年で、出先のコンビニで新製品情報誌を一度買った記憶があるくらいです。そして、その雑誌を読むと「詳しくはWEBで!」みたいな記事ばかりで、何のための雑誌なんだと悲しくなりました。あとは「本体より高そうな付録」とか「アイドルが表紙」とかいう雑誌が本当に多いのです。あっ、息子のコロコロコミックだけは紙の雑誌を買っています。でも、コロコロも今は電子書籍版があるんですよね。


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 この本の著者は、元『プレジデント』最年少編集長だった方ですが、興味深かったのは、巨大な影響力を持つ「ヤフーニュース」を「掲載してもらう側」から分析しているところでした。

 著者の取材によると、ヤフー内での1PV(ページビュー)あたりの単価(推定)は、(新聞の)全国紙で0.21円、有力紙で0.1円、週刊誌では0.025円だそうです。ちなみに、自社サイトで読んでもらえれば、1PVあたり、1億PVまでの大手出版社では1円、1~2億PVでは0.25~1円。2億PV以上では0.25円、一般メディアでは0.25円になるのだとか。

 ヤフーも大手メディアに対しては、それなりに優遇してはいるものの、それでも、100万PVで20万円、というのは、たしかにちゃんと取材をした記事の対価としては安いですよね。週刊誌では、その10分の1で、100万PVを達成しても、わずか2万円。そうなると、「よりスキャンダラスで、話題になりやすい記事」や「テレビ番組で有名人がこう言った、というような手間がかからない割には読んでもらいやすい記事」が多くなってくるのです。出版社の人たちだって、食べていかなければならないのだから。
 ぼろ儲けするというよりは、メディアでの雇用や、そこで働いている人たちの生活を維持しようとすると、PV至上主義にならざるをえないので、「タイトルで釣るメディア」が乱立していくのもやむを得ない面があるのです。読む側からすれば「何これ……」と失望することばかりなのですが。

 出版社としては、自社サイトで読んでもらえればかなり収益は改善されますが、サブスクリプションで定額読み放題にしても、経済誌などの一部のジャンルを除けば、お金を払ってまで見てくれるユーザーは、少ないのです。
 クレジットカードを登録する手間もありますし、「定額読み放題」でも、あるメディアの記事ばかりを読まなくても、ヤフーニュースで話題になっているトップ記事とその関連記事の無料分を読むだけでお腹いっぱい、ではありますよね。

 無料のオンラインニュースサイトで、きちんとした収益を上げる。あるいは、存在感を出すには、実に月間平均1億PVが必要といわれている。「月間1億PVをコンスタントに出さないと、マス広告の主要プレイヤーと見なされない」(大手広告代理店のインターネット広告関係者)とされているが、1つのサイトで、月間1億PVを出すのは相当額の投資と、ある条件が必須となる。
 その、ある条件では、提携するための審査が厳しいことで知られるヤフーニュースとの提携のことだ。前章でも紹介したように、ヤフーニュースは、月間230億PV(2021年8月)を誇る日本最大のニュース配信サービスだが、記事を配信して得られるPV単価ははっきり言って安い。各メディアは、収益については目をつぶってヤフーニュースに記事を提供し、その記事からの自社サイトへのPV誘導を狙っているのだ。
 無料オンラインメディアの雄である「文春オンライン」でさえ、月間約6億PV(同月)であることから、月間230億PVを誇るヤフーニュースが、ズバ抜けて圧倒的な存在であることがわかるはずだ。
 GoogleアドセンスがPVに応じて課金されるので、Googleアドセンスの広告収入に依存する無料ニュースメディアは、総PV数を増やすことが至上命題となる。


 『週刊文春』は、ネットでもさまざまなスクープを拡散していますが、それだけでは十分な収益にはならず、自サイトで有料記事を販売しています。
 紙の雑誌としても、今の時代に大健闘している『週刊文春』でさえ、ぼろ儲け、には程遠いのです。
 あれだけ取材するには、当然ながら、人手もお金もかかっているでしょうし。


 冷静に考えてみれば、篠田麻里子さんがどんな妻や母親としてひどいことをしていようが、僕の人生には何の関係もないことです。
 いや、何の関係もないからこそ、エンターテインメントとして消費できる、という面もあります。

 もう、そんな芸能人のスキャンダルとか報道する必要はないだろう、と思うことは多いですし、「まいじつ」「いまトピ」の釣りタイトルを見ただけで苦笑いを禁じ得ないくらいなのですが、実際のところ、ネットでPV(ページビュー)に応じてお金がもらえる、という現在のシステムが続く限り、「PV至上主義」は続くでしょう。「悪名は無名に勝る」のです。マスメディアで働いている人だって霞を食べて生きていくわけにはいかないし、数字をみれば、みんなそういうのが読みたいんでしょう?と言われば、返す言葉もありません。

 紙の雑誌というのは、今の時代には「不便」ではあるけれど、雑誌全盛期には「読みたい、面白い記事、雑誌をみんながお金を払って買う、という関係性」がある程度は成り立っていたわけです。
 無料で広告依存、PV至上主義、という今のネットの状況は、安易なテレビ番組の内容報告や釣りタイトルなどのネットニュース総スパム化の温床となっています。とはいえ、「読まれなければ、存在しないのと同じ」というのは、書く側として僕も痛感してはいるのです。

 「インターネットにはマスメディアが書けなかった真実がある」「年齢とか立場を超えた個人どうしのフラットなやり取りができる」という「インターネットの理想」は、もはや幻想と成り果てました。

 とはいえ、インターネットによる情報提供・拡散も、SNSや動画サイトを含めて、すでに右肩上がりではなくなっているし(ショート動画などは、まだ伸び代がありそうですが)、Netflixなどの動画配信の契約者数も、欧米では頭打ちになってきています。手段や選択肢はたくさんあっても、1日は24時間だし、可処分時間も変わりはない。それこそ、人間が肉体を捨てることができれば、劇的に可処分時間は増えそうですけど、それは現時点では技術的にも心情的にも難しいでしょう。

 今は、人間と情報の付き合い方の「踊り場」にいるというか、もっと良いやり方があるような気がするのだけれど、その未来の具体的な方向が思い浮かばない、そんな感じがしています。僕より若い人たちには、それが見えているのだろうか。

 あと『週刊朝日』みたいな雑誌って、「お金がもったいないから、とりあえずひととおり目を通してみる」ことによって、知らなかったことに興味がわいたり、新しい作家を知ったりしていた面もありました。今は「自分が好きなものだけバラ売りしてもらえる時代」だし、そのほうが効率的なのは百も承知なのだけれど、人って、案外、そういう「偶然の出会い」で生き方や趣味が変わってしまうものなのではないか、と僕は思っています。

 歴史好きになったのは、小学生のときに図書館で「マンガだから」という理由で借りた「マンガ日本の歴史」の関ヶ原の戦いの巻で、「『正しい』はずの石田三成が負けたこと」に納得がいかなかったから、だったんですよね。


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