いまさらながらこの話。
でも、今回は趣向をちょっと変えてみたいと思うのです。
「フィクションなのに、フィクションだと宣言していない」ことと、「フィクションとしては、レベルが低い。面白くない」ということで批判されたこの『ゲーセンで出会った不思議な子の話』なのですが、僕はなんとなく納得がいかなかったんですよ。
この話、たしかに「難病悲恋モノ」としてあまりにもありきたりなストーリーだし、ふたりの行動も「どこかのドラマで観たようなもの」ばかり。ディテールも甘い。
しかしながら、この話は、多くの人に「ウケた」のです。
それは、なぜだったのか?
今回は、『ゲーセン少女』のどこがそんなに良かったのか?を素直に考えてみたいと思います。
(1)舞台設定
「ゲーセン好き」って、「文楽好き」ほどマイナーじゃないけれど、合コンで(って、僕も合コンって2回しか行ったことありませんが)「趣味は何?」って聞かれて、「ゲーセン通い」とは言い難いくらいのややアンダーグラウンドな「趣味」じゃないですか。
マイナーな趣味の人っていうのは、「同じ趣味を持っている人」への「共感度」が、メジャーな趣味を持っている人同士よりも高くなります。
昔は「パソコン通信で出会ったというだけで、かなりの親近感を抱いてしまう」なんて時代もありました。
でも、「ゲーセン」っていうのは、たぶん、そこが好きな人たちが思っているほどマイナーな場所じゃないし、大部分の人は「一度くらいは行ったことがある場所」のはずです。
この舞台設定が、いまの時代においては「絶妙」でした。
「テニスコートで出会った男女」だったら、僕は絶対すぐ読むのをやめてました。
いま、ゲーセンが「斜陽」であることは多くのゲーム好きは認識していますし、その「斜陽感」が、この『ゲーセン少女』の世界観には合ってもいたんですよね。
(2)小道具の使い方
「彼女と会っているときに流れていた曲なんて、いちいち覚えているわけないじゃないか」
僕もそう思います。ただし、いろんな人が書いた本を読んでいると、「記録魔」というか「日記にその日の出来事を詳細に記録している人」なんていうのもいるので、必ずしも、それだけで「診断」はつきません。
この文章で印象的だったのは、曲の使い方でした。
10-FEETの『ライオン』
藍坊主の『テールランプ』 etc……
僕はこれらの曲を聴いたことがありません。
でも、「聴いたことがある人はある名曲」「いかにもサブカルな人が聴きそうな雰囲気の曲」であることが、周囲のり伝わってきます。
ミスチルとかファンキーモンキー・ベイビーズだったら、「ちょっと違った」ような気がするんですよこれ。
そういう「微妙なリアリティ」というか、サブカルの「なんとなく、クリスタル」な感じというか。
ゲームというのも「好きな人にとっては、題材として出てくるだけで、ちょっと嬉しくなる小道具」なんですよね。
(3)主人公の設定
主人公は「友達がいない、絵が好きだけど、それで食えるほどの実力もない大学生」。
ネットをやっている人には「共感されやすい存在」だと思われます。
そんなにカッコよくない男が、個性的で自分を引っ張って行ってくれるような女性と出会い、翻弄されるというのは、まさに「王道」。
(4)「2ちゃんねるに書かれていたこと」
本ができるプロセスとして、僕たちは「作家が机に向かって(あるいは、パソコンに向かって)書いている姿」を想像します。
テレビドラマや映画の場合は「撮影現場」でしょう。
これらは、作家とか俳優・監督のような、「特別な人」によってつくられています。
では、「2ちゃんねる」(もしくは、ネット一般)に書かれているストーリーが綴られている光景を想像してみてください。
多くの人は、「自分と同じような人が、ひとりで、パソコンに向かってキーボードをたたいている姿」を思い浮かべるはずです。
ネット上では、送り手と受け手はフラット、あるいはそれに近い関係である、というイメージは、まだまだ強いのです。
「2ちゃんねる」というのは、「ちょっとしたうしろめたさ」を共有している空間でもありますから、なんとなく「仲間意識」もある。
「友達の打ち明け話」を聴いているような気分、あるいは、土曜日の夕方にウェイティングバーで「ちょっと聞き耳を」立てているような気分になりがちです。
実際には、作家志望のオッサンがニヤニヤしながら、「ここでちょっと忙しいことにして、間をあけてスレが盛り上がるのを待つか」なんてつぶやきながら、缶ビールをあけているかもしれないのに。
もっと言えば、ネット上の「実話系の空間」では、表現の拙ささえ、「リアリティ」につながる場合もあるのです。
だって、「自分と同じような人」が、そんなに文章うまいわけないのだから。
そして、物語が綴られる過程をリアルタイムで体験することによって、自分が見出した物語のような錯覚も起こしてしまいます。
(5)「フィクションだと明言されていないこと」
これで「実話だと信じてしまった人」も多かったのでしょうね、きっと。
ただ、もしこの文章の冒頭に「フィクションです」と書いてあったとしても、多くの読者は「実話に基づく、あるいは、同じような体験をした人が書いたのだろう」と勝手に想像した人は多かったのではないかと思います。
「2ちゃんねる慣れ」していない人は、なおさら。
だからといって、「これまったくのウソ話ですからね。信じちゃダメですよ!信じるヤツはバカ!」とまで書く人はいないでしょうし。
(実際にそう書いてあったら、かえって裏を感じて、「実話」なのではないかとか勘ぐってしまいそうな気もするくらいです)
僕自身は、「フィクション宣言していないこと」だけが、この物語がこれほど読まれた理由だとは考えていません。
「フィクション宣言していないフィクション」にもかかわらず、歯牙にもかけられない物語は「2ちゃんねる」にもたくさんありますしね。
【考察】
やっぱり、「モテない男にかわいくてちょっと個性的な彼女が!」っていうのは「非モテ男ロマンの常道」ですし、「永遠の愛」というのは女性の大好物です。
(で、死んだあとに不倫告白の手紙が見つかったりするわけですね。僕はあの映画を観るたびに、「夫がかわいそうすぎる……」としか思えないのですが)
その「王道ストーリー」をこの(1)から(5)のような「ヘビーネットユーザーにウケるためのテクニック」を駆使してブラッシュアップしているわけですから、『ゲーセン少女』は、そんなに低レベルの作品ではないと思います。
少なくとも、「インターネットで多くの人に読んでもらうための手練手管」は尽くされています。
それが狙って行われたものなのか、偶然の結果なのかはわかりませんが。
そういう「マーケティング的なやりかた」が嫌いだ、というのはわかります。
でも、そういう「ネットで公開される文章としての性格」を踏まえての工夫も含めて考えれば、「レベルが低い」「こんなの読んで感動するヤツはバカ」と切り捨てられるような作品でもないな、というのが僕の結論です。
この『ゲーセン少女』が多くの人に読まれたという事実は、これから「ネットでたくさんの人に読んでもらえるものを書こう」という人にとって、けっこう参考になると思います。
こんな「重い話」ばかりになってしまっては、読むほうとしてはたまりませんけど。