「ウソは泥棒のはじまり」だと言う。
もちろん、ウソは悪いことだ。
僕だって、つきたくも、つかれたくもない。
しかし、「絶対にウソをつくことが許されない世界」というのは怖くないだろうか。
息子は、3歳になった。
家の中でかくれんぼをしていて、「あっ、○○くんだ!」と僕が言うと、息子は「ちがいます。ライトニング・マックイーンです!」と答えた。
このウソつき!
でも、僕は、息子がウソをつけるようになったことが、少しだけ嬉しかった。
こいつは、この世の中で生きていくための、小さな一歩を踏み出したのだ。
もちろん、すべてのウソを許しているわけじゃない。
人を傷つけるようなウソには、「そんなウソをついちゃダメ」と言っている。
絶対に、ウソをつかない子供たちがいる。
その子供たちは、「ウソをついてはいけない」という宗教の教義に忠実な親に育てられてきた。
ウソをついたら、「地獄に堕ちる」と、徹底的に罰を与えられる。
そのうち、子供たちは打ちひしがれて、ウソをつかなく(つけなく)なる。
その子供たちは、そんな背景を知らない周囲の親から、「おとなしくて、手のかからない良い子」とみなされる。
この子供たちは、「ウソをつかないから、正しい」のだろうか?
ウソはよくない。そんなのは当たり前だ。
どんな宗教でも道徳でも、「ウソと(聖戦とみなされるもの以外の)殺人」は、「いけないこと」だと教えられる。
でもね、人間、生きていたら、ちょっとしたウソをついてしまうことはある。
酷い場合は、それで他人を傷つけたり、信頼を失うこともある。それは仕方がない。自業自得だ。
それでも、「他愛のないウソ」にまで目くじらを立られ、直接関係のない人にまで強く責め立てられるような社会が「正気」だとは、僕にはどうしても思えないのだ。
どんなウソもカルト宗教につながっている?
そんなことはない。
むしろ、「他愛のないウソさえ許さない空気」をつくるのが、カルト宗教のテクニックなのだ。
そもそも、これだけウソがあふれている社会で、「ウソなんて絶対ダメ」だと純粋培養された人間は、どう生きていけばよいのだろうか?
「ウソは泥棒のはじまり」だと言う人がいる。
でも、「どんなウソだって、泥棒につながっている」わけではない。
それを忘れてはいけないのだ。
「俺はウソなんてつかない」という人間ほど、ウソつきなヤツはいない。
僕はウソが嫌いだ。
でも、他愛のないウソさえ許さない世界は、もっと嫌いだ。