いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

自分が気持ちよくなるためだけの、「なんでそんなウソをついたんだ!」は、平成の時代に捨てていこう。


hochi.news

 中日・与田剛監督(53)は23日、NPBから回答の届いた21日のヤクルト戦(ナゴヤD)の判定について納得のいかない姿勢を示した。「『見てました』と言っていた方が見てなかったと認めたのであれば、それに対してちゃんと答えを出さないと、最終的な結論にはならない。見ていないのに、なぜ見たというウソをついたのか。ファンの方も納得しない」と、改めて謝罪と説明を求めた。


 僕もこのプレーの際の審判の動きを録画で見たのですが、「これは見てないなあ」と考えざるをえませんでした。
 というか、あのプレーをちゃんとみていて「セーフ」と判定する審判がいたら、それはそれで問題でしょう。
 僕は中日ファンではないのですが、与田監督が怒るのもわかる。


 検証してみると、審判もよそ見をしていたわけではないみたいなんですけどね。
hochi.news


 結果的に、この審判は、あの場面で見るべきポイントの優先順位を間違えていて、見てないプレーを判定しなければ、と焦り、間違ったジャッジをしてしまった、ということなのでしょう。
 プレーの内容から考えると、その場でプレーを止めて、「ごめん、見てなかったから、リプレー映像で確認して判定する」という対処をすれば、「ちゃんと見てろよ!」というくらいの野次はとんだにせよ、大事には至らなかったはずです。
 僕もあわてるとその場をとりつくろうとしてしまう傾向があるので、焦った審判に同情してしまうんですけどね。
 「誤審」の対象がカープだったら、こんなふうに書けるほど客観的にはなれなかった可能性は高いですが。


 僕は冒頭の与田監督のコメントの「怒り」は、そりゃそうだろうな、と思うんですよ。
 それでも、こういうときに、「見ていないのに、なぜ見たというウソをついたのか」というプレッシャーのかけかたをするのは、今後のためには、得策ではないと感じるのです。

 「なんでそんなウソをついたんだ!」
 僕も子どもの頃から、何度もそう怒られてきましたし、自分の子どもを、そういう言葉で責めたことがあります。
 でも、答えなんて、みんなわかってるはずじゃないですか。


「本当のことを言ったら、怒られるに決まっているから、怖かった」

 
 今回のNPBからの回答って、昔に比べたら、だいぶ改善されていると感じたのです。
 僕の記憶のなかの「昭和の審判」であれば、「審判が見たといえば、見たんだよ。それに選手は従え!」みたいな回答でもおかしくなかった。
 それを「見てなかったことを、ちゃんと認めるようになった」というのは、少なくとも、「より正直なほうに向かっている」のでしょう。

 与田監督は、指揮官として、こういう場面で怒ってみせるのもまた仕事なのかもしれないけれど、最初に「見てませんでした」って審判が謝ったら、「なんで見てなかったんだ!」って怒ったのではなかろうか。少なくとも、審判のほうは、そう思い込んでいた。
 どちらにしてもゲームオーバーになりそうなら、とりあえず「その場しのぎ」に向かってしまうのは、人間の常ではあります。


fujipon.hatenadiary.com

 大ベストセラーとなった『嫌われる勇気』の著者である岸見一郎さんは、こんな話をされています。

 アドラーは「不完全である勇気」という言葉を使っています。ここでいう「不完全」は、人格についてではありません。新たに手がけたことについての知識や技術についての「不完全」です。
 その不完全は、最初からできないと決めてかかって挑戦しない人には思いもよらないことでしょうが、かなりの程度、完全に近づけることができます。
 欧米の言語は私は若い頃から学んできたので、本を読むことができますし、初歩的な間違いをすることはあまりありませんが、初めて学ぶ韓国語の場合はなかなか上達しません。韓国語の知識が足りないからでも、考える力が足りないからでもない、もう一つの理由があります。学び初めの頃は間違えても当然なのに、その事実を受け入れたくはないからなのです。


 大学で古代ギリシア語を教えていた時、一人の学生が、練習問題にあるギリシア語を訳そうとはしないで、黙り込んでしまったことがありました。私はその学生に「なぜ今答えなかったのかわかっていますか」とたずねたところ、学生はこんなふうに答えました。
「この問題を間違って、先生にできない学生だと思われたくなかった」と。
 近代語とは違ってギリシア語は難しいので間違っても当然なので、この答えを聞いて私は驚きましたが、韓国語を学び始めた私も同じことを考えていたのです。
 最初は間違えても、間違いを繰り返す中で少しずつ知識を身につけ、力をつけていくしかありません。教師の立場からいえば、学生が答えて間違ったら、そこが学生がまだ理解できていないことだとわかりますし、教師の教え方がよくないのかもしれません。学生が答えなければ知りようがないのです。
 そこで、私は「間違っても、あなたをできない学生だとは決して思わない」と約束しました。
 すると、その学生は次回から間違いを恐れずに答えるようになり、それに伴って力もついていきました。
 歳を重ねてから新しいことに挑戦する時に困難を感じるとすれば、例えば語学の習得なら、記憶力が減退したからではありません。何もできない自分を認めたくはないからです。


 僕はやる気も実力もないのにプライドだけはそれなりに高いので、この学生の気持ちに共感しましたし、それに対する岸見先生の態度に感銘を受けました。
 人って、自分が優位だったり、「正しい側」にいると思っているときって、つい、相手を徹底的に追い詰めたくなるんですよね。
「どうしてちゃんとできないんだ」「なんでそんなウソをつくんだ!」って。
 相手は答えようがなくて俯くばかりなのだけれど、そこにさらに「黙っていてもわかんないだろ!」と追い打ちをかける。
 そんなことをしても、相手にも世のなかにも何のメリットもなくて、正義を振りかざす「わたし」が気分爽快になるだけなのに。


 僕は医療安全に関するプロジェクトに(限定的な範囲ですが)関わることがあるのですが、どんな組織においても、「行き過ぎた厳罰主義」がもたらすものは、ミスの隠蔽と、その積み重ねによる大きなアクシデントの勃発なんですよ。

 
 ハインリッヒの法則、というのがあります。
resilient-medical.com

ハインリッヒの法則とは、米国の損害保険会社で技術調査副部長をしていた安全技術者ハーバート・ウィリアム・ハインリッヒが5000件以上に及ぶ事故事例を根拠にして導き出した統計的な経験則です。その内容は、1つの重大事故の背景には29の軽微な事故があり、さらにその背景には300のインシデントが存在するというものです。日本では「ヒヤリハットの法則」とも呼ばれています。


 残念ながら、人間はミスをする生き物なのです。
 しかしながら、1つの重大事故の予兆となる300のインシデントを把握し、より大きなミスにつながる芽をつぶしておくことによって、重大事故に至る可能性を減らすことができるのです。
 大事なのは、「ちょっとしたミス」を責めて、「ミスは絶対に許さない!」と、報告しにくい雰囲気や環境をつくることではなくて、「ちゃんと報告してくれてありがとう。それはなぜ起こったのか、そして、今後どういう対策をとればいいのか、みんなで考えよう」という姿勢を共有していくことなのです。

 カッコいいこと書いてますが、まあ、実際はそんなにうまくいくことばかりじゃないです。
 それでも、「ミスをちゃんと報告するのは、みんなのためになる、良いことなのだ」というのは、何度言っても、言い足りない。

 もちろん、世の中には「謝って済むのなら、警察は要らないだろ!」と言いたくなるような、取り返しのつかないこともあります。
 でも、悪意からではない「ミス」に関しては、それにあてはまるものは、ごくわずかなはず。


 インターネットでは、第三者が「責任者」をノーリスクで責めやすくなったために、行き過ぎた責任追及が横行していると僕は感じます。
 そして、そのことが、「告白できない人々」を増やしているのではなかろうか。


 自分が気持ちよくなるためだけの、「なんでそんなウソをついたんだ!」は、平成の時代に捨てていこう。


事故がなくならない理由 安全対策の落とし穴 (PHP新書)

事故がなくならない理由 安全対策の落とし穴 (PHP新書)

(166)本をどう読むか: 幸せになる読書術 (ポプラ新書)

(166)本をどう読むか: 幸せになる読書術 (ポプラ新書)

アクセスカウンター