いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「知らないことは恥ではない」時代と「義務教育で教えてほしかった」という嘆き


nogreenplace.hateblo.jp


 これ、すごく面白かった。
 というか、僕自身がめんどくさい人間でもあり、「私バカだから」と言う人に対して、「バカだから、って予防線張る前に、本当にそう思っているんだったら、バカなことを言ったりしたりしないように用心して行動しろよ」とか思ってしまうんですよね。そもそも、これを言う人の半分くらいは、すごく賢い人なのでたちが悪い。


 閑話休題
 冒頭のエントリを読んで思ったのは、1970年代生まれ、いわゆる「団塊ジュニア」とか呼ばれてしまう僕の若い頃、1980~90年代は、「知識が豊富な人を、みんなが尊敬していた時代」だったんですよね。当時はまだ「インターネット以前」で、トルストイとかスタンダールとかカフカとかシェークスピア夏目漱石森鴎外マルクスソクラテスニーチェなどが「読んでおくべき本」だと認識されていました。「お前、ヴィトゲンシュタインも読んでないの?」みたいなことを言って挑発してくる人たちがいたんですよ実際に。そして、そう言われた僕などは、『資本論』とか『カラマーゾフの兄弟』を読んでいないこと、あるいは理解していないことを「恥」だと思いつつ、『ノルウェイの森』とかを読んでいたわけです。
「知らないことは恥」
「そんなことも知らないのはお前の勉強不足」
 そういう挑発に対して、けっこう本気で『反省』しながら、『夏への扉』とか読んでいたんだよなあ。あれはとても幸せな気分になれる良い本ではあるけれど。

 でも、インターネットの普及にともなって、「知識」というものの価値は、かなり低下してきました。
 とくにスマートフォンが普及しはじめてからは。
 古今東西の、どんな知識人でさえも、いまのiPhoneでごく普通の人が検索で5分の間にたどり着ける「知識量」にはかないません。
 スマホという外付けハードディスクが装備されたおかげで、その人の脳という「本体」のデータ量やスペックの差は、どうでも良くなったのです。


 以前(7年前)、こんなエントリを書きました。
fujipon.hatenablog.com

「なぜ目の前に『Yahoo!』のサイトがあるのに、検索しないんだ?」
その疑問は、よくわかります。
というか、彼らだってそんなこと百も承知のはずで、あえて検索せずに「知らねー」って言っているんですよね。
これって、もしかしたら、今の時代は「知らないこと」こそが個性であり、自分をアピールするポイントになっている、ということなのかもしれません。
むしろ「知っていること」のほうが、簡単なんだよ、オレはステマに流されて、検索なんかしてやらないぜ、っていう。
この時代に、誰かに「知らねーよ」って言い放つことは「お前になんか興味ないんだよ。ちょっと検索すればわかるんだけど、わざわざ検索する手間さえもったいない」という嫌悪感の表明でもあります。
よく知りもしない人を、なんでそんなに嫌いになれるのか、それもよくわからないのですが。

僕の実感として「目の前のパソコンやスマートフォンで検索すれば良いことなのに、検索すらしないで『わからない』『知らない』と言う『めんどくさがり』の人は、世の中に少なくない」というのもあるんですけどね。


 「義務教育で教えるべきだ」という彼らの言葉に、「たしかに、日本という国は、困っているときのサポートの仕組みはけっこうそろっているのに、自分からアプローチしないと助けてもらえない」とは感じるんですよ。
 「救われるための仕組み」を知っている人は助かり、その仕組みを知らない、知る機会さえない人たちは、「生活保護とか恥ずかしい」とか自分に言い聞かせて、立ち直るための契機も与えられずに、自分をすり減らしていく。

 そりゃ、世の中で必要なことすべてを、義務教育でわかりやすく教えてくれるようになったら良いとは思う。
 でも、自分が手に持っている、SNSやゲームをやるためにいじりまくっているその小さな機械で「検索」することすら思いつかない、あるいは面倒だと感じる人たちを、どうやって救うことができるのだろうか。

fujipon.hatenablog.com
(詳しい話をするとまた長くなるので、可能であれば、このエントリを読んでいただければと思います)


 僕が若かった時代に比べたら、「知らない」ことは恥ではなくなった。わからなかったら、スマホで検索すればいい。
 ところが、そうなってみると、「別に検索してまで調べなくてもいいや」あるいは「検索することすらめんどくさい」という人が大勢いることを認識せざるをえませんでした。検索して欲しい情報にたどり着くのも、ノイズが多くて簡単じゃない。
 
 今読んでいる、ルポライター鈴木大介さんの本『発達系女子とモラハラ男──傷つけ合うふたりの処方箋』のなかに、鈴木さんが脳梗塞の後遺症で、「立ち食いそば屋の券売機の中から希望のメニューのボタンを探すのにめちゃくちゃ時間がかかるようになった」という話が出てきます。
 「たくさんのメニューボタンという多くの情報量の中から、欲しいメニューのボタンという「特定の情報」を探し出すのは、「白い洗面台いっぱいに入っている白いボタンの中から1㎜欠けた部分のある白いボタンを探しなさい」というタスクのように感じる、と鈴木さんは仰っています。
 脳梗塞を発症する前は、「黒い皿のなかにある白いボタンをつまんで出しなさい」というレベルの簡単なことだったのに、と鈴木さんは書いておられます。



 「どうしても役所で手続きができない人」が存在するように「検索障害」のような特性を持っている人もいるのかもしれません。
 僕が子どもの頃、どうしても逆上がりができなかったように。
 周りからみれば、「地面を蹴って飛び上がって、ぐるん、って回るだけじゃん」なんだけれど、できないものはできなかった。
 正確には、一時的に「できる」ようにはなったんですけどね。
 世の中のどのくらいのものが努力で克服できるものなのか、がんばっても不可能な「障害」なのか、「できない」と「やりたくない」を明確に線引きできるのか。
 いやほんと、考えれば考えるほど、注釈だらけで前に進めなくなってしまいます。そもそも、前に進むべきなのか。

「知らない」「義務教育で教えてほしかった」が「正しい」と考え、そこで思考停止してしまうと、たぶん、「与えられる情報に流されるだけの人生」になってしまう。
 もちろん、教える側、教科書をつくる側だって、子どもたちに知っておいてもらいたいことを一生懸命に考えています。
 でも、彼らのほとんどは「なんとなく逆上がりができてしまった人たち」なんですよ。そうじゃないと、「作る側」に回れないのが今の世の中の仕組みだから。もちろん、仕事をしていけば、「知る」機会はあるはずです。でも、実感するのは難しい、というのが正直なところだと思います。最大公約数向けの「教科書」に載せられることには、物理的な限界もあります。

「わからないことは、自分で調べる、というか、世の中で本当に役に立つこと、自分にアドバンテージになるようなことは、そう簡単に教えてもらえるようなことじゃないんだ」ということなのです。

 でも、いまの世の中には、自分でドアを叩けば、助けてくれる人、助けてくれるシステムがあるんですよ本当に。それもまた、知っておいてほしい。自分で自分を助けられる人は、勇気を出して、検索をして、助けてくれるところに(どこを選ぶか、というのも大事だけれど)メールを書いたり、電話をかけてみてほしい。


fujipon.hatenablog.com

 4月初めで、新生活をはじめる人も多いと思うので、これを一度読んでみてほしい。
 トラブルって、なにかやらかしてしまったことそのものよりも、それを隠そうとしたり、放置したままにしておいたりすることによって致命的な問題になることが多いのです。世の中のほとんどのトラブルは、すでに誰かが体験していて、処方箋も確立されています。


 僕みたいな「知らない人に電話をかけるのがイヤで、何日も逡巡してしまっていた人間」でも、今の世の中は、いろんな方法が選べるようになりましたし。ホテルの予約とか、ネットでできるようになったのは、なんて天国なんだこの世界。この世の中に、いまから赤ん坊として転生したいくらいです。


 冒頭のエントリでの「ネットでの釣りタイトル、過剰な表現問題」についても書こうと思ったのですが、すでにけっこう長くなってしまったので、手短に。
 僕も「飯テロ」という言葉が使われているのをみると、人間を幸福にする「飯」と不幸にする「テロ」をくっつけるんじゃねえ!と、いちいち引っかかってしまう人間なのです。

 ただ、ネットで書くことを仕事にしている人たちと接してみると、ほとんどの人は「釣りタイトル」や「過剰な表現」にジレンマを感じつつも、「まともなタイトルで読まれない(PV:ページビューを稼げない)エントリ」よりは、「釣りタイトルでも、多くの人に読んでもらえる(可能性が高い)エントリ」を選ばざるをえないみたいなのです。なんのかんの言っても、「売れない、読まれないとお金にならない」。
「どんなに内容が良くても、誰にも読んでもらえなければ伝わらない。それなら、『釣りタイトル』でも、読んでもらったほうがいい」
 実際、「釣りタイトル」とか「下世話な話」のほうが売れやすい。それは「読者に求められている」ということでもある。


fujipon.hatenadiary.com

 紙の雑誌がどんどん売れなくなっていくなかで、あの『週刊文春』も、デジタル化、ネットでのニュース配信での収益化に舵を切ろうとしているのです。
 記事の内容がテレビで採りあげられるときに「使用料」を徴収するようにもなりました。
 「ジャーナリズム」としての高い志があるのなら、芸能人のスキャンダルじゃなくて、政治家の汚職とかだけを追うようにすればいいのでは、とも思うのだけれど、実際に「売れる」記事は芸能人のスキャンダルのほうなんですよね。
 芸能人の不倫スキャンダルで稼いだお金がなければ、政治家の汚職を追うこともできない。
 週刊誌が「下世話」なのは、読者もまた「下世話」だから、なのです。
 まあでも、人間、そんなものだよね、僕だってそうだし。
 ベッキーさんの「センテンススプリング!」とか、爆笑してしまったものなあ。
 
 ただ、これは僕個人の印象なのですが、個人ブログレベルでの「挑発的な言葉を使っての『炎上ビジネス』」的なものに関しては、ここ数年で話題になることは(叩かれることさえ)激減してきていて、ネットユーザーの「スルー力(これを「情報リテラシー」と言うのだろうか……)」は、着実に上がってきていると感じてもいるのです。単にみんな飽きてきただけかもしれませんが。


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2016年の週刊文春

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