いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

任天堂・岩田聡社長を悼む。

withnews.jp


任天堂社長の岩田聡さんが2015年7月11日に亡くなられました。
享年55歳。
発表されていた病名は、かなり予後が厳しいものではありましたが、手術のあとも精力的に活動されていたこともあり、突然の訃報に驚きました。


僕にとっては、殿上人のような存在である一方で、同じ時代を生きた、少し年上の「ゲーマー」として親しみを感じるところも多くて、僕は岩田さんと、岩田社長の任天堂を、ずっと応援してきたのです。
というか、岩田さんは僕も遊んでいたファミコンの『ピンボール』や『バルーンファイト』『ゴルフ』などをつくっていたそうですから、僕のゲーム人生と同じくらい、日本にテレビゲーム文化が生まれてからいままで、ずっとゲームをつくりつづけてきた人でもあったのです。


まだ42歳で任天堂の社長に抜擢された際、「若すぎる」「経験不足なのでは」という声があがった際に、岩田さんは、プレッシャーを感じているのと同時に、「経験というのであれば、長年テレビゲームをつくりつづけていた経験では、誰にも負けないと思っている」とコメントされていました。
岩田さんは、WiiニンテンドーDSという「ハードのスペックとしては、同時代のソニーマイクロソフトのハードに劣るゲーム機」で、新しい遊びを提案し、任天堂をよりいっそう大きな成功へと導いたのです。
ただ、近年は、スマートフォンへの対応の遅れや、WiiUが予想の半分も売れなかったことなどで業績が伸び悩み、岩田社長の責任を追求する声もあがっていたのです。


岩田さんが病気で休養される前に、某所でこんな記事を書きました。ch.nicovideo.jp


いま、ゲーム業界は、スマートフォンでのソーシャルゲーム全盛期から、また新たな転換期を迎えようとしています。
ソーシャルゲームも、『パズル&ドラゴンズ』『モンスターストライク』が、ずっと大ヒットしているものの、「その先」が見えなくなっているのですよね。
今春、岩田社長自身がスマートフォン市場への積極的な参入を表明したり、『パズドラ』と『マリオ』のコラボレーション作品をニンテンドー3DSでリリースしたりもしているので、「任天堂としても、なりふり構っていられない」状況なのかもしれません。
岩田社長は、社長就任後もずっと、宮本茂さんとともに、任天堂のゲームの品質管理に直接関与されていたらしいですし。
それは「任天堂らしさ」だと僕が感じていた伝統であるのと同時に、「55歳のゲーマーの感性の呪縛から、逃れることができなかった」面もありそうです。


横井軍平さん、宮本茂さん、岩田聡さん、桜井政博さん……
その次のクリエイターの「顔」が、まだ、見えてはいなかった。
今回の訃報で、宮本さんが社長になるのかどうかはわかりませんが、山内さんが岩田さんを社長に据えた時点では「プログラマーとしての腕はもちろん、リーダーとして、マネージャーとしての才能を買っていた」のでしょうし、「岩田さんが会社のマネージメントを行うことによって、宮本さんはクリエイティブな仕事に専念できる」という分業を考えていたと僕は思っています。
少なくとも、岩田さんが60歳、あるいは65歳になるくらいまでは、そういう態勢でやれるのではないか、と想定していたはず。


岩田さんは、「天才プログラマー」であるのと同時に、「自分という人間のポジションを、客観的にみることができる人」でもありました。


任天堂 “驚き”を生む方程式』(井上理著・日本経済新聞出版社)に、こんなエピソードが紹介されています。


 岩田(聡・任天堂社長)は宮本の強さの秘訣を、「肩越しの視線」と表現する。
 ゲームを作り込んでいる最中の宮本は、しばしば、社内の総務関連の部署などからゲームをやらない人を連れてきて、コントローラーを握らせる。宮本はそのプレイの動きを何も言わず後ろから見つめ、「あそこが難しいなぁ」とか「あの仕掛けに気づいてもらえなかった。わかりやすく変える必要があるな」などと、改善点を次々と浮き彫りにするのだ。宮本は言う。
「いつも、これからゲームに引き込もう、という人を相手に作っているので、今、ゲームに熱中している人の意見は当てにならないところがある」
「世界の宮本」は、任天堂がゲーム人口拡大戦略を始めるずっと前から、ゲームに関係のない人の声を拾っていた。どれだけ世界中で評価されようが、実績を作ろうが、決して独りよがりにはならず、「普通の人」がわからないのは自分が間違っているからだと、修正をしてきた。
 その武器が、「肩越しの視線」なのだ。
 生活の中に新しい遊びや楽しみを見出す、遊びへの探究心と鋭い嗅覚が、非凡なアイデアを生む。そして、見つけた遊びの種を、万人に理解してもらうために、愚直に遊びを磨き込む。
 その過程は、実に禁欲的なものである。


 岩田社長は「天才」であったけれども、自分の才能に溺れて「独善的」になることはありませんでした。
 それは、宮本茂という人の存在が、身近なところにあったから、なのかもしれません。
 岩田社長にも「肩越しの視線」があって、テクノロジーに対して、「自分基準」ではなく、「みんなが、ごくふつうの家族が楽しめるか?」という判断基準を持ち続けてきました。


岩田社長に、こんな言葉があります。
 私もプログラマー出身ですから、先端技術にひかれますし、美しいグラフィックに魅せられることもあります。でも、同時にその製品に私の家内が興味をもつか否かも気になるのです。それが自分の考えを補正するのに役立ちます。


 そして、岩田社長は、テレビゲームは、お金儲けのための手段としてではなく、「人を楽しませるためのもの」だと、ずっと考えていたのです。
 ソーシャルゲームに対して消極的だったのも、課金システムや、ゲームとしての奥行きのなさに、ひとりの「ゲームづくり職人」として、納得できないものがあったから、ではなかろうか。
 結果的には、任天堂は長期間赤字となり、手腕を疑われることにもなってしまったけれど、ずっと勝ちっ放しの経営者なんていないんですよね。
 ジョブズだって、最初にアップルを追われたタイミングで命が尽きていたら、「伝説」にはなれなかったはず。


www.4gamer.net


これは昨年12月に行われた岩田社長のインタビューなのですが、社長就任後も「土日に趣味でプログラムを組んでいた」なんて話を読むと、「どれだけ好きだったんだこの人は!」と、なんだか笑みがこぼれてきてしまうのです。
高橋留美子先生が、「『うる星やつら』の気分転換に『めぞん一刻』を描いていた」とインタビューで話されていたのをきいたときと同じくらいの「常軌を逸した」プログラムモンスター!


本当は、岩田さんって、「自分自身でゲームを作りたくってしょうがなかった人」だったのではないかなあ。
60歳くらいで任天堂の社長という大役からリタイアしたら、趣味で「自分のゲーム」を、作りたかったのではなかろうか。
いまの任天堂で、「クリエイターの才能や個性を活かせるマネージメントができる人間」として、社長には自分がベストだろうという判断でやっていただけで、本来は、「現場の人」だったような気がします。

私の名刺には社長と書いてありますが、頭の中はゲーム開発者です。心はゲーマーです。


 ゲームで遊ぶのが大好きで、ゲームをつくるのが大好きで、そして、ゲームを作りたい人に、ゲームを作らせてあげるのが大好きだった人。
 岩田さん、早く終わらせるのは、開発が遅れそうなプログラムだけで良かったのに。
 あなたと同じ時代に生まれてきて、僕は幸運でした。


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任天堂 “驚き”を生む方程式

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