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こんなエントリを『はてな匿名ダイアリー』で読みました。
僕はずっと前に、けっこう若いときに自分の両親を亡くしているのだが、医療を行う側としては、日々向き合っている課題ではある。
僕自身は、人の死というのは、まさに「電池がきれる」ようなものだと思うし、死ねばあとのことは自分ではわからないので、あまり人に手間をかけずにいなくなれればいいし、胃ろうや中心静脈栄養などの延命治療は希望しない。
ただ、それは僕自身の人生観、死生観でしかないし、それを他者に強制する気は全くない。
命が尽きれば、神のもとに行ける、と信じて生きてきた人を「そんなはずがない!」と理屈で言い負かそうとすることに、何の意味があるのか。僕だって、信じられるものならば、死んだら天国に行ってお花畑でいなくなってしまった人たちと再会できると信じたい。いや、お花畑は1時間くらいで飽きそうだから、天国が1980年代のゲーセンみたいなところだったらいいな。さすがに騒々しいか。
与太話はこのくらいにして、冒頭の増田さん(『はてな匿名ダイアリー』の書き手)のお父さんへの接しかたには頭が下がるし、すごいなあ、立派だなあ、と思いながら読んでいました。
身内を、身内だからという理由だけで愛し続けるのはとても難しい。
むしろ、身内だからこそ、期待して、裏切られて、失望することだってある。
そうそう、これは誰かの息子としての僕の話ではなくて、高齢者の診療や看取りに携わる側として書こうと思った文章だったので、以下はそうします。
僕は今の増田さんと同じような状況に置かれた家族とたくさん接してきました。
「できること(胃ろうや高カロリーの中心静脈栄養、昇圧剤や心臓マッサージまで)はなんでもやって、少しでも長生きさせてください」という家族は、30年前くらいは末期がんの患者さんの家族でも少なからずいたのだけれど、最近はほとんどいない。
「家族」の平均的な人数が少なくなったし、日本が以前ほど豊かではない、高齢化にともなって、いわゆる「老々介護」で、家族の側にも経済的・体力的な余裕がなくなってきています。
ただ、ネットで多くの人が制度化を求めている「安楽死」というのは、いまの日本では許されてはいないし、以下のエントリを読んでもらえば、「生命の価値を他者が判断して切り捨てることの危険性」も理解していただけるのではなかろうか。
fujipon.hatenadiary.com
fujipon.hatenablog.com
『安楽死が合法の国で起こっていること』より。
オランダは2001年、ベルギーは2002年に世界で初めて積極的安楽死を合法化し、両国とも安楽死をめぐる「最先端」であり続けてきた。いずれも安楽死者数は増加傾向にあり、オランダの安楽死者は2018年から毎年6126人(総死者数の4%)、6361人(4.2%)、6938人(4.3%)、2021年には7666人(4.5%)。2022年には前年から14%増の8720人(5.1%)だった。ほとんどは癌患者だったが、そのうち認知症患者は288人で、前年から34%の増加、また多様な症状を抱えた(polypathology)高齢者は329人で、前年から21%の増加、そのうち58人は夫婦揃って安楽死。つまり、2人揃って死んだ夫婦が29組あった。
ベルギーでも2020年に2445人、21年に2699人、22年に2966人と、約1割ずつ増加してきている。2022年に安楽死者が総死者数に占める割合は2.5%だった。約7割が70歳以上、4割超が80歳以上。安楽死者数全体の17.8%が終末期ではない人だった。
カナダでは近年、医療や福祉を十分に受けられない人たちの安楽死の申請が医師らによって承認される事例が次々に報道されて、問題となっている。実際にMAID(医療的臨死介助(Medical Assistance in dying))で死んだ人がいる。
1例目はソフィアという仮名で報じられた51歳の女性。化学物質過敏症(MCS)を患い、救世軍が運営するアパートに住んでいたが、コロナ禍で誰もが家にこもり始めると、換気口から入ってくるタバコやマリファナなどの煙が増え、症状が急速に悪化。カナダには障害のある人に安全で、家賃が手ごろな住まいを助成する福祉制度があるため、友人や支援者、医師らの力も借りて2年間も担当部署に訴え続けたが、かなわなかった。安楽死の要件が緩和されたため自分も対象になると考えて申請したところ、認められて2022年2月にMAIDで死去。支援者が寄付を集めていたが、間に合わなかった。友人への最後のメールに書かれていたのは「解決策は見つかりました。もうこれ以上闘うエネルギーはありません」。
(中略)
同じ病気で同様に困窮してMAIDを申請しながら、友人が集めた寄付が間に合って命拾いした女性もいる。トロント在住の31歳のデニス(仮名)は、難病のほか6年前からは脊髄を傷めて車いす生活となっている。収入は州の障害者手当のみで月に1200ドル程度。ただでさえ貧困ラインを割っているうえにカナダでは住宅不足で家賃が上がった。7年前から助成金の出る住まいを申請し、本人はもちろん支援者と主治医も奔走したが、実質的な対応はされないままだった。
それに比べると、安楽死の申請手続きは驚くほど簡単だったという。幸い、承認を待っている間に支援者のインターネット募金が成功し、一時的にホテルに移ることができた。募金を集めた支援者は「もし住まいの問題と弱者であることがMAIDを求める理由に含まれているとしたら、我々はそこに非常に深刻な倫理問題を抱えています。それなのに政府は、人々に自分自身を方程式から取り除く力を与えている。これでは医療的臨死介助(Medical Assistance in dying)ではなく政治的臨死介助(Political Assistance in Dying)です」と憤った。
「安楽死」の適応は、世界的な潮流でいえば、導入された国では、どんどん「拡大解釈」されているのです。
僕も「胃ろうや胃管、点滴で栄養補給され、日常のすべてを介助されながら生きていること」に、どのくらいの「意味」があるのだろうか、と思うことはあります。その疑問は、完全に僕のなかで克服されることはなくて、今でもときどき、そう感じてしまいます。
その一方で、増田さんのお父さんのような状態、認知症が進行し、食事を摂ることも拒否されている状況で、それでは、と、栄養補給の手段を断って餓死していくのを待つ、というのは、それはそれで、家族や医療側にとってはつらく、悩ましいものでもあるのです。
もちろん、「これをやったら死ぬ」ということを積極的にやることはないとしても、ある程度簡単にやれる「栄養補給の手段」が残っているのに、それをやらないことに、僕たちは慣れていない。
たぶん、そういう状況に陥らず、普通の生活をしている段階、あるいは、自分自身のことであれば、「管から栄養を注入されて、身動きもできないまま生きていたくない」と考える人が多いはず。
とはいえ、自分の身内が、あるいは、担当している患者が飢えて水分が不足して、次第に弱っていって心臓が止まるまで、ただ見守っている、というのは、看取る側にとっては、かなりの心理的な負担なのです。
血管が細くなってしまって、どうしても点滴が入らない、とかいう状況であれば、「もうこれは仕方がない」のだけれど、結果的には「何もしないのは忍びないから、最低限の栄養補給の点滴くらいはしましょうか」というあたりが「落としどころ」になることが多くなります。
認知症が進行して、食事も拒否、というような状況の高齢の患者さんだと、最低限の点滴をしていても、老衰、あるいは肺炎や尿路感染症(膀胱炎や腎盂腎炎)、慢性心不全、腎不全の増悪などで、長くても数か月くらいで寿命をむかえることが大半です。
その処置をされる患者さんの側は、何もわからないかもしれないし、苦痛で、もう死なせてくれと思っているかもしれない。あるいは、楽しい夢をみている可能性だって、無くはない。
正直なところ、それは「本人のため」というよりは、「やれることはやった」ということで、「看取る側の『その後の人生』から、少しでも後悔を減らせたら」という儀式のようなものです。
残された側は、生き続けなければならない。
人間って、何をどうやっても、「あのとき、ああすればよかった」って、思ってしまいがちなんですよ。
身内がどんどん衰弱していくのを、何もせずに「自然に任せた」というのは、いまの北欧とかで生きている人にとっては「寿命で天に召された」と受容できる可能性が高い。
でも、いままで日本で生きてきて、日本の死生観とか常識のなかで生きてきた人にとっては、「何もしなくてよかったのだろうか」と、ずっと、「心の傷」になってしまいやすい。
だからといって、30年前のように、形式だけでも心臓を動かすためだけの救急処置まで行うのを望む人は、もう、ほとんどいないでしょう。
なんのかんの言っても、日本人の死生観も、どんどん変化していっているのです。
胃ろうを導入する頻度も、10年前に比べたらかなり減りました(これは僕の実感として、なのですが、統計的にもたぶんそうだと思います)。
信念に基づいて、絶対に点滴はしない、という人でなければ、手や足の抹消の静脈から可能な範囲での点滴での栄養・水分補給くらいが、多くの場合、現在の日本で「寿命」をむかえる高齢者を看取る際の本人、家族、医療者の均衡点ではないか、というのが僕の現時点での印象です。
X(Twitter)などをみていると、若いラディカルな医者(なのか本当はわからないけれど)たちが「胃ろうや中心静脈で全介助の高齢者に使う医療費はムダだから、そんな医療はやめて、さっさと看取って、お金を若い人のために使え!」って言っているのをときどき見かけます。
もし「その人」が、自分の親だったとしても、そう言えるのか?
経済効率が悪い、という理由で人を切り捨てることが許容される社会を望むのか?
人はどんどん年を重ねていくのだから、「将来」が姥捨て山行きしかない社会に、希望が持てるのか?
もちろん、そういうのは状況にもよります。戦争中はまだ生きられそうな重傷者でも戦場に置き去りにせざるをえないことがあるし、大災害の現場では「生きられる可能性が高そうな人」が優先される場合もある。
でも、平時の病院勤務の医者に、それを「選別」する資格なんてあるのか?
これから、世代交代が進んで、「食べられなくなったら、もう何もしなくていいよね」という社会的同意が日本でもできあがったら、時代に従う、それで良いと思います。
ただ、そうなるには、まだ時間がかかるだろうし、信仰を持たない日本人にとっては、「死を肯定的に解釈する」ことが難しい面もありそうです。
冒頭の増田さんは責任感が強い人で、自ら「父を殺す」という強い言葉を使い、決意しようとされているのでしょう。
でも、僕が担当医であれば、「患者さんご本人が点滴も拒否されたら仕方ないですが、可能であれば、1日1本くらい栄養剤の点滴くらいしておきましょうか。『何もしないで見守る』というのは、実際にやってみると家族も医療者もつらいものですから」というのを「落としどころ」として相談してみます。
「死なせてあげる」「殺す」というふうに、自分で責任を被らなくてもいいし、それこそ「お父さんは、そういう罪の意識や責任にあなたがとらわれるのを望んでいない」のではなかろうか。
きれいごとではあるけれど、「寝たきりの親のことを、子どもが気にせずに一日過ごせたら、その日は医療側の勝ち」だと僕は思っている。
「寝かせておくだけ」とか「病院の金儲けになる」とか言う人も多いけれど、全介助や認知症の高齢者を褥瘡をつくらないように体位変換し、便の処置をして清潔を保ち、なるべく転倒しないように注意するのは、けっして簡単なことじゃない。
お金の話をすれば、ベッドを空けておくよりはマシだろうけど、病院も、そんなに「儲かる」ものではないです。
書きながら、僕も本当は『情熱大陸』とかに出てくるような最先端の医療や研究をやるオンリーワン医者になるつもりだったのになあ、どうしてこうなったのか、と考えてしまいました。
人生は、本当に思ったようにはいかないよね。
だからこそ、増田さんには、せめて、自分がこれまで頑張ってきたことをしっかり認めてあげて、自分を自由にしてあげてほしい。








