いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「フリーレンさまにとっては、短い時間かもしれませんが」

frieren-anime.jp


アニメ『葬送のフリーレン』を毎週楽しみにしている。
マンガが面白くて、正直、アニメ化に不安も抱いていたのだけれど、本当に丁寧に作られていて毎回観終えて嬉しくなる。監督は『ぼっち・ざ・ろっく!』の斎藤圭一郎さんなのか、天才かよ。

個人的には、こんなド直球ファンタジー世界+アニメの初回が『金曜ロードショー枠』の2時間でスタートしたことに、けっこう感動していた。
いつの間にか、エルフとかドワーフとかが、ゴールデンタイムに説明なしで登場することが当たり前の世の中になったのだ。

僕がエルフという存在を初めて意識したのは1986年に連載が始まった『ロードス島戦記』のディードリッドだった。
当時の『コンプティーク』でJ・R・R・トールキンの「指輪物語』を知り、『ドラゴンクエスト』をはじめとするコンピュータRPGでファンタジー世界が少しずつ世の中に受け入れられるようになっていった。

2003年に公開された、ピーター・ジャクソン監督の『ロード・オブ・ザ・リング』で、ファンタジー世界は、より一般的なものになったと思う(この映画、僕も大好きです)。

テーブルトークRPGやアニメ、テレビゲームが「オタクの娯楽」で、『コンプティーク』の袋とじがレジに持って行くときに恥ずかしかった10代の僕に、「お前が50歳のとときには、エルフがさらっと出てくるアニメが金曜日の9時から放送されることになる」と予言しても、信じなかっただろうなあ。

それこそ、「フリーレンさまにとっては、短い時間かもしれませんが」


『葬送のフリーレン』は、ファンタジー世界を舞台に、「時間」や「老い」を描いている。
フリーレンは1000年以上生きるエルフで、人間は「何か教えても、すぐ死んじゃう」存在なのだ。
こういう「生きられる時間を測るものさしが違いすぎる種族同士の関係」は、『ロードス島戦記』の頃から描かれていて(パーンとディードリッド)、普遍的なテーマとも言える。僕は人間なので、『フリーレン』を観ていると、自分が「地上に出てから1週間で死んでしまうなんてかわいそう」だと思っていた蝉や短命なハムスターなども、彼らなりの「あたりまえの生命の時間」を生きているのだろうか、と考えてしまう。まあ、彼らが何を考えているかなんて、そもそも「考える」ことがあるのかもよくわからないのだが。


ベンジャミン・バトン 数奇な人生』という映画のことも思い出す。
warnerbros.co.jp
fujipon.hatenadiary.com


デビッド・フィンチャー監督のこの映画、僕はすごく「心に引っかかり続けている」のだ。

それは、80歳で生まれ、年を取るごとに若返っていく数奇な運命の下に生まれた、ベンジャミン・バトンの物語。


この映画の原作(とはいっても、映画化の際にはかなり変えられていて「原案」に近いもののようです)は、あのF・スコット・フィッツジェラルド。『グレート・ギャッツビー』の作者でもある。
フィッツジェラルドは、村上春樹さんが最も敬愛する作家のうちのひとりなのだが、この映画を観終えて、僕は、あの『壁と卵』のスピーチの一節を思い出さずにはいられなかった。

よく練られた嘘(読者に、そこにある真実だと思わせるような物語)を創り出すことにによって、作家は「真実(実際にそこにあるもの)」にいままでとは違う位置づけをして、新たな角度から光を当てることことができるから。


多くの場合、「いま、実際にそこにあるもの」をそのままの形で正しく認識し、具体的に描くことは非常に困難なのだ。

この映画は、「実際にはありえないフィクション」なんですよやっぱり。
でも、この「フィクション」によって、僕たちは、「愛する人と一緒に年を重ねられる、年老いていける、そして、自分の子どもよりも(大部分は)先に死ねるというのは、幸福なことなのかもしれないな」ということを痛感させられる。
「一緒に年を重ねていくカップルをそのまま描く」という方法で、これを観客に「伝える」のは至難の技。
ところが、「よく練られた嘘」として『ベンジャミン・バトン』という「そうじゃなかった場合」を描くことによって、「真実(実際にそこにあるもの)」が見えてくる。


上記は昔書いた『ベンジャミン・バトン』の感想を流用しているのですが、読んでいて、昔の自分はなかなかやるな、と感心してしまいました。自分ではあんまり「歳をとった実感」はないのだけれど、書いたものを読むと「自分が書きたいものを掴む握力」の低下を痛感します。

みんな「歳をとりたくない、いつまでも若くありたい」と願うけれども、本当に自分だけそうなってしまったら、それはそれでつらいかもしれない。
フリーレンに関しては、それこそ、人間が犬や猫の寿命をみるように、エルフとして人間の命の時間をみているだけ、であり、そのドライな視点だからこそ、観客も救われている面もありそう。


あと、この作品を知ったときに思い出したのが、『勇者死す』というゲームでした。

ja.wikipedia.org

プレイヤーは魔王を倒した勇者として、自分の救った世界を見て周る。

…本当に世界に平和は訪れたのか…?

その一つの答えを提示する。


僕がこのゲームを知ったのは、2016年に出たPS Vita版だったのですが、最初は2007年にiモードのアプリ版ではじまったそうです。


「勇者が死んだ後」の世界を描くRPG。「自分の葬式はどんなものになるのか」というのは多くの人が想像することだと思うのですが、それを実現したゲームでもあるのです。

『葬送のフリーレン』は、人間の「生命の長さ」の物語であるのと同時に、「どんな特性を持った人が『勇者』と呼ばれるようになるのか」という問いかけのようにも感じています。
戦いで前衛として剣をふるうのが戦士、魔法使い、僧侶、盗賊などは、それぞれの「特技」で説明できる。
では、何があれば「勇者」にクラスチェンジできるのか?
何らかの血統的な裏付け、みたいなものが必要なのか?


こうして、思いついた作品を挙げていくだけでも『葬送のフリーレン』は、これまでに作られてきたさまざまな作品世界を昇華したものであり、ファンタジー作品の歴史の「巨人の肩の上に乗っている」のだと思います。

それだけに、中学生時代には、「エルフとは……から同級生に説明しなければならず、大概の人には『童話?』みたいな、興味のかけらもない反応をされていた」僕にとっては、観ていてとても感慨深いし、記憶の間欠泉からとめどなくいろんな作品が噴き出してくるのです。



オチもなく、ただの思い出話で申し訳ない。年寄りの話は長くなる。


そうだ、アニメを観ていて、人間の結婚生活とかパートナーシップって、『フリーレン』の勇者一行の旅とその後、みたいだな、と思いました。

「魔王を倒す」、イコール「結婚のような恋愛の成就」とすれば、人間にとって、「魔王を倒すための冒険」は、人生のうちのごく一部の時間でしかなくて、「その後」には、平凡で退屈な日常や、変わってしまう(あるいは、変わってくれない)仲間への不満や苛立ちが待っている。もちろん、悪いことばかりじゃないけれど、同じ目的を持った冒険中のような結束感やアドレナリンの分泌はない。
それでも、人は、誰かと生きようとする。「冒険をしていたころ」の記憶にすがったり、パーティを解散してしまったりすることもあるけれど。

人生は、長くて短い。あるいは、短くて長い。
昔はドラゴンを倒せた炎の魔法も、今となっては、お茶も沸かせなくなった。

世界は変わっていくけれど、自分はそんなに変われない。
まだ、できることはあるだろうか。



fujipon.hatenablog.com

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