いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「倍速視聴」が苦手な世代は、「コンテンツ」と、長年どう接してきたのか?


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 僕はコンテンツを倍速視聴したり、本を速読したりすることはない。
 ただ、それが正しいと考えているから、というより、人生の大半が、倍速で観ることが難しい(できない)環境だったから、慣れている方法を続けているだけ、でしかない。
 

 僕は百田尚樹さんという作家のイデオロギーは全く支持していないが、この発言は「腑に落ちた」気がしたのです。
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田原:これは小説家・百田さんの、放送作家またはテレビ制作者的なところだろうと思うけど、『永遠の0』は場面が次から次へと展開し、見せ場や山をつくって飽きさせない。とても用意周到につくり込んでいる印象を受けました。ちょっとつくり過ぎでは、と思った部分もあったくらいなんだ。


百田:わかります。私は、小説は基本的にエンターテインメントだと考えている小説家です。言論人やジャーナリストならば、主張したいところを論文で書けばいい。でも、小説家は、読者のアタマに訴えるよりも、心に訴えることのほうが大事だ、と思うんです。もちろんアタマに訴えることも必要ですけれども。
 評論家なんかはよく「この小説にはテーマがない」と、いったりします。たとえば「戦争は絶対にダメである」というテーマが重要だ、とかね。そんな意見を聞くと私は、だったら原稿用紙を500枚も600枚も埋めていく必要なんかない。「戦争はダメだ」と1行書けば済むじゃないか、思います。


田原:うん、そりゃそうだ。


百田:小説が論文と違うのは、そこです。「戦争はダメだ」「愛が大切だ」「生きるとは、どれほどすばらしいか」なんて1行で書けば済むことを、なぜ500枚、600枚かけて書くのか。それは心に訴えるために書くんです。「戦争はダメ」なんて誰だってわかる。死者300万人と聞けばアタマでわかるし、悲惨な写真1枚見たってわかる。けれども、それはアタマや身体のほんとに深いところには入らない。そんな思いがあって、『永遠の0』という小説を書いたんです。


 インターネットでものを書いていると、「長い。3行で」みたいなブックマークコメントをつけてくる人が少なからずいます。
 僕だって、他人が書いたものに「長いよ」と思うことは多い。
 ただ、「戦争は悪いことだ」「差別はいけない」という「結論」だけでは、面白くないし、人の心も行動も(たぶん)変えない。

 僕は半世紀くらい、いろんな物語に触れてきたけれど、正直なところ、物語の「類型」って、そんなにたくさんはないんですよ。とくに「ウケる」ものに関しては。「史上初の斬新なストーリー」なんてそう簡単にはできないから、キャラクターや設定やディテールでどう「印象を残す」かが大事になってくる。
 あとは「間」とかですよね。

 『葬送のフリーレン』のアニメの話題の中で、フリーレン役の種﨑敦美さんが、とくに難しい台詞として、フリーレンの「そうだね」というのが、同じ言葉なのに毎回少しずつ違っていて難しい、と仰っていました。

 僕にとっては、『フリーレン』は、そういう「ニュアンスの違い」みたいなものを味わう物語であって、ストーリーがわからなくても、「なんか普段と違った時間が流れるアニメだな」で、良いと思っているのです。
 いや、自分自身では、それなりに「ストーリーも理解できている」つもりなんだけれど。

 『葬送のフリーレン』は、『ぼっち・ざ・ろっく!』と同じ監督さんなのですが、僕は『ぼざろ』の8話が大好きで、事あるごとに観返しています。嵐のライブハウスでの後藤ひとりのギターソロ、そして、ラストの虹夏とひとりのやりとり。タイトルが回収されて、青山吉能さんの「はい!」から、間髪入れずに鈴代紗弓さんがボーカルの『なにが悪い』へ続いていくのは、何度観ても、「すごい!上手い!」と感心(感動)してしまいます。

 この一瞬の「すごい!」のために、長年、いろんなコンテンツを見てきた、最近はそう思っています。2時間の映画があったとして、2時間全てが見せ場という作品なんて、あり得ないのではなかろうか。

 めんどくさい話をすると、『フリーレン』を観る側に関しては「エルフという長命の種族が(ファンタジー世界には)いる」という背景への基礎知識の有無から、魔法とかモンスターとか、あと、「時間の基準が違う人間類似性物での感情の交わりを描いた物語の伝統」を知っているか、など、人によってけっこう違いがあるはずです。

 でも、50過ぎの僕も、10代、まだ10歳にも満たない僕の2人の子供も「これは面白い」と感じているので、ややマニアックなテーマを最大公約数の観客に面白がってもらえるように(そして、自分にはこれがわかるけど、他の人はどうかな、とちょっと優越感を抱かせてくれるくらいに)絶妙に演出している、と言えるのではないでしょうか。

 以前、ある有名なゲームデザイナーが、ゲームの謎解きに対するテストプレイヤーの反応について「自分にはなんとかクリアできるけど、みんなはちょっと難しいんじゃないかな」という反応が返ってくるくらいがちょうどいい、と述べておられました。


 いろんな美術展や海外の美術館にも行きましたが、いまだに、「どういう見かたをしたら、その作品を『見た』と胸を張って言えるのだろう?」と考え込んでしまいます。
 その作品から30センチメートル以内で、5分以上凝視したら合格、とかそういうものでもないでしょうし。
 おばちゃんたちが、フェルメールの有名な絵を「あっ、これテレビで見たやつや!」「ほんとほんと、でも人多いなあ。じゃ、とりあえず見たからランチ行こうか」みたいなノリで「見た」と言えるのか、人波に押されながら、なんとか遠目で「実物」を視界に入れた、というレベルで「鑑賞した」と考えて良いのか。

 いまの技術であれば、「本物」の『モナリザ』や『ダヴィデ像』と素人には見分けがつかないレベルの複製品を3Dプリンターでつくることも、そんなに難しくはないはず。
 それを近くで隅から隅まで眺めても、「見た」ことにはならないのか。

 そもそも、僕自身には絵画の善し悪しを判別する能力も基礎知識もない。
 「有名な作品だから、有名な画家だから、いい作品のはず」という先入観から逃げることはできない。

 実際、「どう鑑賞していいのかわからないまま、とりあえず有名な絵、いい絵みたいだから、長時間いろんな角度から眺めてみている」だけで、それと「とりあえず見たことにするためのダッシュ鑑賞」が全く違うという自信がない。
 いや、もちろん現場で見れば、写真とは違った角度から見たり、絵の具の厚みを感じたり、あるいは、一緒に見ている人たちの息遣いや緊張感が伝わってきたりはするのですが。

 眼鏡をずっとかけているので、「何もかも所詮、ガラス越しじゃねえか」みたいなことも思うのです。
 それを言うなら、記憶も経験も電気信号に過ぎないけどさ。


 なんかごめん、今年はいろんなことを書き残す年にしようと思っているので、これまで以上に、ちゃんとしていない文章を投下してしまう可能性が高いです。

 アニメや映画の倍速視聴に関しては、僕自身は、前述したように、基本的にはやりません。制作側が「1.0倍で再生されること(本当は「劇場で観てもらうこと、なのかもしれませんが)」前提で作ったものだと思っているから。
 僕にとってコンテンツというのはけっこう大切なものだし、素晴らしい料理人が、「いま、このタイミングで食べるのがいちばん美味しいです」と出してきたものは、そのタイミングで食べたい。
 ただ、こういう感覚そのものも、僕が「倍速視聴に慣れない古の民」だからなのかもしれないな、と思ってもいます。
 子供たちは、「等速だとまだるっこしい(冗長な感じがする)」って、よく言っていますし。『葬送のフリーレン』は、等速で観ているようですが。

 正直、デジタルネイティブ、生まれたときからインターネットに接してきた世代って、僕などとは情報処理能力が一桁、二桁違うような気もしています。ファミコンとプレステくらいの差がある。
 アニメとか動画コンテンツでも、「間で見せる」よりも「情報の洪水で目を離せなくする」ようにしているように感じます。

 そういう時代だからこそ、『葬送のフリーレン』は、かえって新鮮なのかもしれません(むしろ、喜んで観ているのは僕のような中高年層が多い、という可能性もありますね)。

 もう、観客としては、「解釈」しないで「ただ、楽しむ」だけでも良いんじゃないかな。それが当たり前のことのはずなのに。
 解釈で闘うのは、仕事でやる人以外には、あまりにも底なし沼すぎる。

 「解釈マウンティング」が楽しい、という人がいるのもわかるけど(僕もその傾向がありますね……)


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