いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「仮想空間の自由」と「すべてが自分に都合がいい世界」


anond.hatelabo.jp


 この『はてな匿名ダイアリー』のエントリに対するトラックバックやブックマークコメント、そして、冒頭のエントリへの増田さん(『はてな匿名ダイアリー』の著者)の追記」を読んだ。


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 これらのブックマークコメントをみていると、「他人と衝突しない世界なんて、オンラインでも幻想だ」と述べている人が多いし、僕もその通りだろうと思う。

 人間対人間であれば、利害の衝突は起こる。お互いに悪意はなくても起こる。
 たとえば、ひとりの女性をふたりの男性が好きになり、女性はそのうちのひとりを選ぶ、というシチュエーションになった場合、誰が悪いことをしたわけではないのに、選ばれなかったひとりは大変つらい思いをすることになる。まあ、だからこそ、「勝ち取る」ことに快感があるのだ、という考え方もあるだろうけど。


 冒頭のエントリを読んで、先日読んだこの本のことを思い出した。


fujipon.hatenadiary.com


 この本、僕のように「わかる!」って言いたくなる人と「何これ気持ち悪い」と感じる人に二極化するのではないかと思うのだが、いまはKindle Unlimitedで読み放題にもなっているので(2022年1月31日現在)、興味を持った方は、読んでみていただきたい。

 データサイエンスを駆使したSNSがあれだけ選別を重ねても、確執と衝突は起こるのである。現代は、衝突が起こりがちなのに、衝突を容認しない社会である。ならば抜本的な解決策は一つだけだ。フィルターバブルの中で一人だけで生きていく。

 今まではそれが技術的に難しかった。SNSで快適に過ごしても、どこかで路銀を稼ぎにリアルへ出て行かねばならない。メタバースはそれを仮想現実の中で可能にする。
 一人が寂しければ、AIが形作る仮想人格や愛玩人形が無聊を慰めてくれる。
 あまりにも侘しい人生に感じられるだろうか? しかし、それすら過去の極めて硬直した価値観であるかもしれない。
 サブカルチャーは炭鉱のカナリアとして利用できると述べた。この分野でオタクはすでに先行事例を大量生産している。ゲームやアニメのキャラクタを恋人や配偶者として扱い、ガチャに数千万を投じ、抱き枕や等身大人形を連れて旅行に出かけ、誕生日を祝ってきた。
 リアルのチャペルで、二次元キャラとの結婚式を行う者もいる。
 勘違いしてほしくないのは、よく言われているように「リアルで相手にされていないから、二次元に逃げている」人だけではないのだ。多くの者が、リアルよりも二次元のほうが好きだから、キャラクタを恋人とし、配偶者とする。近年の「正義」や「多様性」のくくりには入れてもらえないので認知が進まないが、そういう性的少数者だということである。
 今まではこうした少数者だけの市場だったが、長い時間を経て仮想空間で恋人や配偶者を実現するための技術が磨かれたこと、リアルの恋愛リスクが高騰していることなどから、もう少し大きなセグメントがリアルから仮想現実へ流れていくことが予想される。


 冒頭のエントリでは「思想の自由」という言葉が使われているので、『ファイナルファンタジー14』のようなオンラインRPG的な世界のなかで、人間(のアバター)同同士が、争わずに行儀よく議論できる世界、というイメージを読んだ人に与えてしまっているようにみえる。

 だが、増田さんが考えているのは「思想的自由」という言葉で言い表すよりは「個人個人がそれぞれの仮想世界の中で、コンピュータがつくり出したリアルなキャラクターに囲まれ、認められ、愛されて、ひとりで生きていく世界」なのだと思う。

 例えとして適切ではないかもしれないが、ひとりひとりが、それぞれの『ドラゴンクエスト』の世界で、「勇者ロト」として生きていく、そんな感じだ。
 オンラインRPG的な、それぞれのキャラクターを人間が担当している世界では、それぞれの思惑が衝突するのは当たり前だ。「ここは〇〇の村です」とずっと言い続けたい人間が、そんなにいるとは思えない。
 実際に、オンラインRPGでも、NPC(人間が担当していない、あらかじめプログラムされているキャラクター)が、多くの役割を果たしている。

 いまの、そして、これからの技術では「人間がプレイしているのと見分けがつかないようなNPCだけでつくられた仮想世界」を生み出すことは可能になっていくはずだ。

 すでに、「やりとりしている相手が、人間なのかAIなのか?」を判断するのは、けっして簡単ではないレベルになってきているのだ。

 極論すれば、それを望む人は、ベーシックインカムと食料の配給、最低限の生活のインフラを与えられ、ずっとオンライン上の仮想空間で、ゆうしゃロトになったり、海賊コブラの生涯を過ごすことだって可能になるだろう。
 長い間石像にされて庭先に放置されるのは「仮想空間での勇者の物語の一部」であっても想像したくはないけれど。

 打ちのめされたり、生きづらさを抱えていたりしながら「現実を生きる」よりも、現実や他者との接点を極力減らして、「仮想空間で誰にも迷惑をかけずに(電力やネットワークへの負荷はあるとしても)ひとりで楽しい夢をみて生の時間をやり過ごす」ほうを選ぶのは、悪いことなのだろうか?
 うまくいかないのが人生なんだよ、と、他者のそういう生き方を否定することができるのだろうか?

 僕は昔からこういうことをときどき考えていたのだが、2022年くらいになると、「これまでは技術的に無理だったこと」が、どんどん可能になってきていて、「仮想現実もまた現実の一部にすぎない」と、いまの若者たちは理解している。
 そもそも、人間の感覚も思考も電気信号やプログラムみたいなもので、「まだ完全には解析されていないだけ」でしかないようにも思う。

 ただ、「人間は競争や衝突が大好きで、なんでも自分の思うがままになる世界で、本当に幸せになれるのだろうか?」という気もする。
 人間はやりたいことかやらなくてはいけないことしかやらない生き物で、ネット上での論争なんて、ほとんどは「やりたい(楽しい)からやっている」だけだ。

 もしかしたら、今ここにいる自分自身が、誰かがプレイしているゲームのキャラクターで、そいつが飽きてリセットボタンを押したら全部消えてしまうのではないか、とか、ときどき考えながら生きてきた。

 あらためて考えてみれば、「宗教」って、そういうものではあるのか。


fujipon.hatenadiary.com

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