いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「同性婚を認めるなら近親婚も認めろ」を「論破」するのは難しい。

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この記事に関しては、世界の潮流や日本の最近の世論調査などをみると、岸田総理の言葉は「時勢に合わない」と感じる一方で、この場では、国のトップとして慎重な姿勢をとった、とも思われます。じゃあ早速法制化しましょう、認めましょう、と簡単には言えない立場ではありますよね。そう口に出してしまえば、さまざまな実務が立法や行政の現場では生じてくるわけですし。
いつまで日本政府は、その「慎重な立場」でお茶を濁しているんだ、と苛立っている人がいるというのも想像はできます。


はてな匿名ダイアリー』でも、同性婚についてのエントリが注目されているのです。

anond.hatelabo.jp
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 僕は同性愛者ではありませんが、同性婚には賛成です、というか、反対する理由がない。
 正直なところ、結婚制度というもの自体が、もう時代遅れになってきているような気もしますが、それでもパートナーとしての義務と権利を守るための仕組みというのは、まだ今の時代には必要なのでしょう。
 
 子どもが生まれない社会になって、いつか人類が滅亡するとしても、それはそれで、人類ってそういう運命だったのだろうな、と思うだけです。


 同性婚についての話が出てくるたびに、以前読んだ『リベラリズムの終わり その限界と未来』という本に書かれていたことを思い出すのです。

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 この新書には、「リベラリズム」とは何か?という定義からはじまり、「なぜ、いま、リベラル派とされる人たちが嫌われるようになったのか?」「今の世の中で、『リベラルであろうとすること』の限界」について丁寧に書かれています。

 著者は、こんな事例を紹介しています。

 アメリカのモンタナ州に住むネイサン・コリア―(当時46歳)は2015年6月、郡の役場にクリスティーンとの婚姻届を提出した。
 これだけならアメリカのどこにでもある話である。おめでたい話だ、ということで終わっていただろう。
 しかしこの婚姻届はちょっとした騒動を引き起こした。ネイサン・コリアーが提出したのは、二人目の妻との婚姻届だったからだ。

 重婚、とか一夫多妻とか、「論外」でしょう、と僕は思ったんですよ。
 しかしながら、アメリカでは宗教上の理由などで、3万人から4万人が、一夫多妻生活を送っているそうです。

 では、婚姻届の提出を受けた郡の役場はその婚姻を認めたのだろうか。
 その結末を知るまえに、そもそも役場は二人目の妻との婚姻を認めるべきかどうか、考えてみよう。
 ポイントとなるのはやはり「同性婚が認められる以上、一夫多妻婚も認められるべきではないか」という問いである。
 この問いに「同性婚は認められるべきだが、一夫多妻婚は認められるべきではない」と答えることはなかなか難しい。とりわけリベラリズムの立場にたつならば、そう答えるのは困難だ。
 同性婚は近年、欧米諸国を中心に認められるようになってきた。
 その背景にはリベラリズムの考えが社会により浸透してきたことがある。
 すなわち、たとえ同性婚がこれまでの(男女一対一という)結婚の規範から逸脱するものであるとしても、本人たちがそれを望んでいて(つまりその結婚が強制されたものではなく)、かつその結婚が誰にも具体的な危害や損害を与えないのであれば、本人たちの自由を尊重すべきだ、という考えである。
 この「できるかぎり個々人の自由を尊重すべきだ」という考えが「リベラリズム自由主義)」と呼ばれる。
 要するにリベラリズムとは「他人に迷惑や危害を加えないかぎり、たとえその行為が他人にとって不愉快なものであったとしても、社会は各人の自由を制限してはならない」という哲学的原理のことである。


 著者は、一夫多妻婚は、伝統的な家族形態を重んじる保守派の人々にとっては不愉快なものだろう、と述べています。
 そして、「一夫多妻婚というと、男尊女卑のイメージがついてまわるため、リベラル派を自認するフェミニストのなかにも、これを不愉快に思う人はいるはずだ」と。

 たとえ一夫多妻婚が自分にとって嫌悪感や不快感をもよおすものであったとしても、それだけの理由でそれを望む人の権利を制限することはリベラリズムの原理に反するのである。
 こうした原理の重要性は、リベラル派が同性婚を認めるべきだと主張してきた論理を考えるなら、よりはっきりするだろう。
 リベラル派は同性婚についてこう主張してきた。「たとえ同性婚が一定の人たちにとって嫌悪感や不快感をもよおすものであったとしても、それが他人に具体的な損害や危害をあたえないかぎり、それを望む人の権利を制限することはおかしい」と。
 この論理が同性婚には適用されて、一夫多妻婚には適用されない、というのはおかしい。
 その場合はそれこそ「ダブル・スタンダード」という批判をリベラル派は免れえないだろう。


 中世や近代の、「基本的人権から定義しなければならなかった時代」には「リベラル」という思想は多くの一般市民にとって理に適うものでしたし、社会を変える大きな力になったのです。

 しかしながら、人権意識が一般的なものとなった社会では、「リベラル派」というのは、自分たちにとって都合の良いところにだけ「自由」を主張しているようにも見えがちなのです。

 この一夫多妻婚についても、当事者の気持ちを無視して、「一夫多妻は女性をないがしろにしている」という自分の価値観による決めつけ(パターナリズム)に陥ちがちなのではないか、と『リベラリズムの終わり その限界と未来』の著者は述べています。

 ネイサン・コリア―さんたちの婚姻届がどうなったかは、この本を読むか、ネットで検索してみていただきたいのですが、リベラリズムを突き詰めれば、「なんでもあり」になってしまう、という可能性もあるんですよね。

 本人たちが望んでいるのなら、2対2での結婚とか、近親婚だって、「不快感を持つ人がいる」以上の迷惑をかけるものではないだろう、と。
 近親婚に関しては、障がいの発生率が高くなる、というのを禁忌の理由として挙げる人が多いのですが、著者は「それならば、高齢出産もリスクを高めるのだから、禁止すべきだ、ということになってしまう」と指摘しているのです。

 正直、ここまでくると、極論であるような気もするのですが、これを「極論」と僕が考えてしまうのも、先入観のなせるわざ、とも言えるわけです。
 「言論の自由」を唱えながら、自分に反対する人には不寛容な「リベラル派」も少なからずいますし。

 どこまでが「結婚可能な範囲」なのか?
 「本人たちの気持ち」と「他者の迷惑に(ほとんど)ならない」というラインで線引きするのであれば、親子婚だって血縁のきょうだい婚だって、重婚だって多夫多妻制だって、「それだけは絶対にダメ」と断言するのは困難です。

 親子婚に関しては「養育関係にあれば、子どもの側は拒否できなかったり、感情の刷り込みを行われている可能性がある」ということで認めたくないところではありますが「恋愛感情なんて、多かれ少なかれ『刷り込み』ではないのか」と問われたら、僕はうまく答える自信がありません。あの宗教の「集団結婚式」だって、いまの僕の感覚からすれば「なんでそんなことするの」なのですが、本人たちは「信仰に従っただけ」なんですよね。

 「どの関係までを結婚可能にするか」ということに、すべての人が納得できる客観的な根拠や境界線を見出すのは難しい。
 でも、そこになんらかの「線引き」をしないと、「権利や義務」を決めることもできなくなります。


 結局のところ、その時代や社会の状況や人々の考え方に合わせて、「どこまでが結婚可能な範囲か」について、その都度決めていくしかないように思われます。
 近親婚や重婚が多くの文化圏で禁忌とされているのも、「誰かがそう決めたから」(あるいは、神様がそう決めた、とされているから)でしかありません。

 岸田総理が「家族観や価値観、社会が変わってしまう課題だからこそ、社会全体の雰囲気にしっかり思いをめぐらせたうえで判断することが大事だ」と発言しているのは、まさにその通りなんですよね。

 科学的に誰もが納得できる境界があるわけではないのだから、「法律を、定義を変えること」が、社会の意識を変えることになるでしょう。
 世代交代による「常識」の変化は明らかですし、同性婚「までは」そう遠くない未来に法制化されるはずです。
 そうなると、「では近親婚は?」「重婚は?」ということになっていくはずですが、そのとき、「同性婚推進派」は、「両者の合意があり、他者が困ることがなければ、なんでもあり」という立場を突き進んでいけるのか?
 それとも、「同性婚は認めるべきだけれど、近親婚はダメ」というように、どこかでストッパーがかかるのか?

 とりあえず、ひとりの人間の寿命というのは限られているので、その時代を生きている人たちが決めていくしかない。
 未来には「同性婚が認められない時代があったんだってよ」と呆れられているかもしれないし、戦争や人口減に対して「産めよ増やせよ」が復活してくる可能性もあります。
 そもそも、結婚しない人がどんどん増えているのだから、「結婚制度そのものが無くなるか、大きく変わってしまう」ことも考えられます。

同性婚を認めるなら近親婚も認めろ」を「論破」するのは難しい。
「結婚」というのは、人間が歴史のなかでつくった「決まり事」でしかなく、これまでも揺らいできたのです。
たぶん、「日本では同性婚を不快だとか異常だとか思う人たちが年を取って退場していき、社会の空気が変わってきたのだから、認めるのが自然な流れ」ということなのだと思います。


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