いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

博物館でのスケッチ問題と「出る杭が打たれるインターネット」について


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 これが『はてなブックマーク』のホットエントリに挙がっていて、まずタイトルをみて、「ああ、これは博物館が責められる流れなんだろうな」と思いながら読みました。
 著者側は「模写禁止」になっていたというルールを認識しておらず、子どもが歴史的遺物やアートに興味を持ってくれていることを喜び、好奇心を伸ばそうとしていたのに、それが妨げられて残念に思っていることが伝わってきます。
 僕も何度か海外の美術館に行ったことがあるのですが、作品を模写している子どもたちや美術学校の学生らしき人がけっこういて、みんなものすごく上手くて驚いたのと、こんなふうに世界的な名作を間近なところで模写できるというのはすごいな、と感心したのです。
 ノルウェーオスロ美術館では、ムンクの『叫び』が、ほとんどノーガードで展示されていて、写真も撮影できましたし。
 
 ただ、だから海外は良くて日本が悪いか、というと、そうも言いきれない。
 そもそも、僕は日本でずっと暮らしている日本人なので、映画館で大声でしゃべりながら観て、歓声をあげている人がいたら「邪魔するなよ!」って思います。
 アメリカでは「大騒ぎしながら映画を観るのが常識」なのだとしても。

 上映前に「映画は静かに鑑賞しましょう!でも、映画を観て泣いたり笑ったりは大歓迎です!」みたいな説明が流れるのですが、「どっちなんだよ!」って、心の中で毎回ツッコミを入れてしまいますし。
 美術館・博物館の場合は、作品保護というのが重要なので、さらに難しいところがありますよね。


 冒頭のエントリでの博物館側の対応にしても、「博物館や美術館で働いている人たち」の著書を読んでみると(もちろん、本にするときには「建前」みたいなものが前面に出やすいのだとしても)、これらの施設、とくに税金が使われている公共の施設は、「展示」とともに、「研究」「教育」が重視されているのです。
 ただし、いまの世の中では、公共施設だからといって、赤字を垂れ流すような体質は許されておらず、「集客」とか「顧客満足度」を重視しなければならない、という事情もあります。
 最近、他所から作品・収蔵物を集めた「特別展」でも、このエリア(作品)は、スマホでの写真撮影可・SNSで拡散してね!というのをよく見かけるようになりました。


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 最近は、作品や時間帯を限定して、写真撮影OKの美術展もけっこうあるのですが、この本の作者が働いている岐阜県美術館では、今のところ「写真撮影禁止」なのだそうです(2017年の話です)。
 なかには「あのルーブル美術館でも作品の撮影OKなのに」と言うお客さんもいるのだとか。
 作者はこうコメントしています。

 写真撮影の問題には、作品保護やお客さんが鑑賞される際の快適さ、そして著作権のなかの「複製権」などが複雑に関係しています。ちなみに、ルーブル美術館の展示品は、そのほとんどが著作権保護期間をすでに過ぎているのです。


 その美術館の「サービスのよさ」や「先進性のちがい」だけが理由じゃないんですね。
 作品の写真撮影って、けっこう、いろんな要素が絡んでいるみたいです。
 そういうことを知らないと、「あのルーブルだって撮影できるのに」って、思ってしまいますよね。

 冒頭のエントリでいえば、土偶が現在も著作権保護期間内というのは考えにくいので、「子どもが作品の前にずっと居座っていて目障り」みたいなクレームが来ることもある(あるいは、そういうクレームが来ることを恐れている)のだと思われます。僕自身は、そうやって一生懸命作品をみている子どもや学生たちをみると、「ああ、なんか『文化』だなあ……」と、「歌」を聴いた『超時空要塞マクロス』のゼントラーディ人のように感動してしまうのですが。
 生のアートって、それをみている人たちの反応も含めてアートなんじゃないか、って思うし。

 そもそも、日本の美術館・博物館って、ものすごく混んでいることが多いのです。話題の作品が展示されているときはなおさら。
 以前、九州国立博物館で『阿修羅展』が行われた際には、入場まで2時間待ち+阿修羅像の周囲は入場制限がされていて、係員の指示で周囲に輪をつくらされ、掛け声とともに30秒ごとに場所移動し、ぐるぐる回りながら鑑賞、という状況でした。
 あらためて考えてみると、ここまでしてアートを見ている姿というのは滑稽でもあり、その鑑賞の様子そのものが現代アートのネタになりそうです。


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 この本の著者によると、ヨーロッパの美術館どうしては、お互いの収蔵作品を無償で貸し借りすることが通例なのですが、日本は海外の美術館で喜ばれるような収蔵品が少ないため、「お金」で作品を借りることになっています。
 そのことが、世界の「習慣」を変えて、美術館のなかには、その「レンタル料」をアテにしたり、海外に「分館」をつくったりするところも増えてきたのです。
 とはいえ、基本的に美術展というのは「収支がトントンなら万々歳」というくらい「儲からない」そうです。

 正直申し上げると、展覧会の収支は赤字になることがほとんどです。新聞社やメディアとの共催展示会で、メディア側がものすごく集客に力を入れ動員数につながった場合、あるいは、超有名作品が鳴り物入りで来日した場合など、十本に一本レベルくらいの割合で黒字になるケースもあるますが、原則、展覧会の収支目標としては、大きく黒字をめざせるわけではない。赤字を出さず収支トントンであれば、充分、許容範囲なのです。その収支目標を狙うにしても、ある程度の集客を確保しなければなりあせん。展覧会づくりは、こうしたシビアな現状のなかで行なわれているのが現実です。
 予算についても同様です。決して好環境というわけではありません。小規模の市立や区立美術館などでは一展覧会につき1000万円どころか100万円単位の予算で運営している場合も多いと聞きます。新聞社などのメディアが共催する大規模海外展レベルで数億円という予算でしょう。ただ、それだけの予算をかける場合には、少なくとも数十万人という動員客数が見込めなければ、結局、収支は赤字になってしまいます。

 コスト面についても触れておきましょう。例えばフランスからルノワールの絵画を一点輸送する場合。保険費も含めた輸送費はおおよそどれくらいかかるのでしょう。まず、堅牢なクレート(特注のケース)の内側に厳重な内装材を入れたダブル仕様のクレート作成だけで数十万円。そこに輸送費をプラスして、さらに保険料を加算すると、約100万円単位の経費が必要となります。あくまで作品一点についての輸送費です。さらに作品をエスコートしてくる貸し出し側の美術館のクーリエ(随搬者)の経費もこちらに付随します。ですから、作品を何十点も輸送しなければならない大規模海外展の場合は、輸送費・保険費だけで数千万円あるいはそれ以上のコストを捻出しなければなりません。
 それに加え、会場設営費、人件費、カタログなど展示会関連書籍・チラシやパンフレットなどの制作費……と、必要経費はどんどんかさんでいきます。それでも、この輸送費関連のコストが占める割合は非常に大きいといわざるを得ない。


 美術館や博物館で働いている人たちは、基本的にアートが大好きなのではないかと思います。
 「お金のため」だけにやるには特殊すぎる仕事すぎるし、報酬も(世界的な大美術館のキュレーターは別として)恵まれているとは言い難い。
 「研究」や「教育」への情熱と、「お金を稼ぐこと」の折り合いをつけながら、日々仕事をしているのではなかろうか。
 本当は、スタッフ側だって、子どもの「模写」を咎めたくはないのかもしれない。
 でも、「子どもがずっと作品の前に張り付いていて邪魔」みたいなクレームが入ると、「子どもがせっかくアートや歴史的遺物に興味を持っているのだから、未来のためにガマンしましょうよ」とは言いづらいのでしょう。
 
 僕の個人的な意見としては、混雑している状況では、他の鑑賞者の妨げになるので、混雑時や人が多い特別展での模写は制限せざるをえないと思います。
 その代わり、比較的空いている状況(これは境界線を決めるのが難しいので、平日夕方限定、とかが良いかも)なら、あるいはあらかじめ許可を得ておけば模写も認める、というくらいの「教育的配慮」があっても良いのではないかと。
 みんなが『ポケモン』をやっているなかで、アートや歴史に興味を持ってくれる子どもの存在は、貴重なものだと思いますし。


 正直、僕はこのエントリに対して、博物館側を責めるような反応が多いのではないか、と予想していたんですよ。
 でも、『はてなブックマーク』をみて、驚きました。


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「賛否両論」なのは理解できるのです。
でも、文章を書く側からみて、これだけ「ツッコミどころを丁寧に潰し、小骨を抜くようにして書かれた文章」でも、こんなに叩く人がいるのか、と驚きました。

美術館や博物館には「研究・教育施設」という役割があるはずなのに、子どもの模写(それも、空いている状況で、周りの迷惑にならないように配慮していた)を咎めるのが「妥当」なのかどうか?

ルールとして入り口に明記してあったとはいえ、展覧会に慣れた人だと、いちいち注意書きを確認しないでしょうし。
(新規株式公開の「目論見書」や携帯電話の契約書と同じくらい、みんな「読まずに同意している」のではなかろうか)

ブックマークコメントに「これぞ毒親」とか「ルールを守れよ」という言葉を見かけて、僕は唖然としました。
最近のネットでコメントする人って、なんでも「毒親」「オワコン」って言っていれば良いと思っているんじゃない?
これで毒親なら、世の中の親のほとんどが毒親になっちまうよ(というか、僕は親というものには多かれ少なかれ「毒親成分」があるものだと実感しています。逆に、自分の子どものことを淡々と突き放して俯瞰できる親が「まとも」なのだろうか)。


「ルールを守れ」とは言うけれど、インターネットのおかげで、「慣例とか常識とかで決められていた『おかしなルール』に、一般市民がリアルタイムで声をあげられるようになった」と僕は思っているのです。
それまでは「じゃあ裁判に訴えろ」「仲間を集めて圧力団体でもつくれば」「お前が議員になって法律を変えろ」みたいな「世の中の変え方」しかできなかったのが、ネットのおかげで、ちょっとしたつぶやきや問題提起が、社会に大きな影響を与えることも増えたのです。

 ところが、ネットは影響力が大きくなりすぎて、そして、手軽すぎて、また、発信者が自分に都合よく切り取った情報を鵜呑みにした人たちが過剰に反応しすぎたことによって、かえって、その「社会的影響力」が失われ、「出る杭を打って快哉を叫びたい人たちのサンプル採取場」となりつつあるのです。


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 インターネットでの告発というのは、ハマってしまったときに、その威力が強すぎるために、かえって「使いづらい武器」になりつつあるのです。
 実際、「バイト先での迷惑行為での若者の炎上」みたいなのは激減していますし、以前は「ネットだから書ける」だったのが、「ネットに書くとヤバい」になってきています。
 発信する側がどんどん萎縮していく一方で、「無名の人」「失うものがない(と自分で思っている)人」は、猛威をふるい続けているのです。
 ネットからは、用心深い人たちはどんどん退場し(あるいは、必要最低限の「告知」だけするようになり)、「炎上商法上等!」な人たちの独壇場になりつつある。

 少なくとも、冒頭のエントリに関しては、「教育の場としての博物館への問題提起」として、検証・検討してみるべき話だと僕は思っています。
 「どちらが悪い」じゃなくて、いろんな意見が可視化されて、世の中が改善されていくのなら、そのほうがお互いにとって良いことのはず。博物館側だって、模写をする子どもを憎んでいるわけじゃないだろうから。

 博物館・美術館好きとしては「大事な問題提起だよな、これ」と思いました。
 もしかしたら、近い将来、美術館には3Dプリンターでつくられた精巧なレプリカが置かれ、自由に触ったり模写できたりするようになるのかもしれません。それでも、「本物」が求められるのか?

 インターネットがもたらすものが、「どんなおかしなルールでも『ルールだから』と疑問を持たずに従う人間以外を排除する社会」なのだとしたら、あまりにも悲しすぎるし、僕はそんなものを次世代に遺したくはないのです。
 誰が主導したわけでもないのに、インターネット社会が「監視社会化」しつつあるのって、なんだかおそろしい。


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