いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

夏とSNSと私のインターネット


 Twitterのタイムラインを眺めていると、安倍首相を支持する人と不支持、あるいは批判している人たちがいる。
 韓国を非難している人がいれば、日本の側の対応が問題なのだ、と言い続けている人たちもいる。
 そういう政治的な問題とは距離を置いて、自分の趣味について語り続けている人もいる。
 ひたすら、ネタをつぶやいている人もいる。
 なかには、フォロワー数が数十人くらいしかいないのに、「自分の日常」について細々と語り続けていて、この人は誰に向けてこれを発信しているのだろうか、虚しくならないのだろうか、そもそも、こんなにツイートしていたら、それだけで一日終わってしまうのではないか、と思うこともある。

 これだけ、ネットが、SNSが一般化していて、「自分の話を聞いてもらいたい人」がこんなに増えているにもかかわらず、「他人の話を聞きたい人」は、そんなに増えているようには思えない。
 まあ、それもそうだよな。
 僕だって、自分の小学校高学年の息子の話に相槌を打つのもめんどくさくなることが少なからずあるもの。
 なぜ、小学生はあんなにYouTuberが好きなのか?
 明らかに宣伝であろう動画を妄信してしまうのか。
 だいたい、夏休みの親なんて「そろそろ宿題したほうが良いんじゃないかな……」くらいしか言わないから、致し方ないのか。

 最近、つくづく思う。
 人間というのは、とにかく「自分の話を聞いてもらいたい」生きものである、ということを。
 「バカにされた」と感じると、暴走してしまうリスクが大きい、ということを。
 そして、多くの場合、最初に失敗してしまったことが致命的なダメージになることはほとんどなくて、そこでヤケになって無謀な運転をしたり、ストレス解消とかいう理由でお金を浪費してしまったり、信頼した方が良い人を裏切ったりすることのほうが、大きな禍根を残すことになる。
 そんなことは、たぶんみんなわかっているはずなのに、自分のこととなると、頭に血がのぼってしまうことも少なくない。
 

mainichi.jp

 このニュースもあって、僕はけっこう「落ちて」いた。
 現時点では、どんな薬物だったかわからないので、筋肉増強剤や興奮剤をそれとわかって摂取したものではないことを願っている。
 できれば、長期の出場停止になっても、バティスタにもう一度チャンスを与えてほしい。
 ……だが、こういうのはまさに「贔屓のチームの選手だから」でもあり、もし仮に対象になったのが巨人の選手だったら、僕は容赦なく「ドーピングで勝ってうれしいのかよ!金をばらまくだけじゃ気が済まないのか!」とかわめき散らしていたのではなかろうか。
 結局、愛着や嫌悪感みたいなものを全部引きはがして、物事を判断するのは難しい、ということだ。半世紀近く生きてきても、そうだ。
 アドラー心理学がどんなに素晴らしい、人を救う可能性がある考え方でも、「それまであったことを無しにする」ことができる人はほとんどいない。
 共産主義が悪いというよりは、大部分の人間は共産主義に向いていないのと同じことだ。
 

fujipon.hatenadiary.com

 この本のなかで、アルフレッド・アドラー心理療法も「クローズド・ループ現象」の事例として採りあげられている。
 アドラーの理論の中心は「あらゆる人間の行動は、自分を向上したいという欲求(優越性の追求、または理想の追求)から生まれる」という、「優越コンプレックス」なのだそう。

 1919年、カール・ポパーアドラーに会い、アドラー理論では説明がつかない子どもの患者の事例について話した。ここで重要なのはその詳細ではなく、アドラーの反応だ。そのときのことを、ポパーはこう書いている。

 彼(アドラー)はその患者を見たこともないのに、持論によってなんなく分析した。いくぶんショックを受けた私は、どうしてそれほど確信をもって説明できるのかと尋ねた。すると彼は「こういう例はもう1000回も経験しているからね」と答えた。私はこう言わずにはいられなかった。「ではこの事例で、あなたの経験は1001回になったわけですね」


 ポパーが言いたかったのはこういうことだ。アドラーの理論は何にでも当てはまる。たとえば、川で溺れる子どもを救った男がいるとしよう。アドラー的に考えれば、その男は「自分の命を危険に晒して、子どもを助ける勇気があることを証明した」となる。しかし同じ男が子どもを助けるのを拒んでいたとしても、「社会から非難を受ける危険を冒して、子どもを助けない勇気があることを証明した」となる。アドラーの理論でいけば、どちらにしても優越コンプレックスを克服したことになってしまう。何がどうなっても、自分の理論の裏付けとなるのである。ポパーは続けた。

 人間の行動でこの理論にあてはまらないものを、私は思いつかない。だからこそ——あらゆるものが裏付けの材料になるからこそ——アドラー支持者の目には強力に説得力のある理論だと映った。一見すると強みに見えたものは、実は弱点でしかなかったのだと私は気づいた。


 クローズド・ループ現象のほとんどは、失敗を認めなかったり、言い逃れをしたりすることが原因で起こる。疑似科学の世界では、問題はもっと構造的だ。つまり、故意にしろ偶然にしろ、失敗することが不可能な仕組みになっている。だからこそ理論は完璧に見え、信奉者は虜になる。しかし、あらゆるものが当てはまるということは、何からも学べないことに等しい。


 「あらゆるものが当てはまるということは、何からも学べないことに等しい」
 ネットで誰かの意見を読解するときに、頭の片隅に置いておくべき言葉だと僕は思っている。

 そもそも、表に出ていることすべてが真実だとは限らない。
 暴走運転している車の運転手は、親が危篤なのかもしれない(そういう時こそ、自分でハンドルを握るべきではない、と僕は考えているが)。


 伊集院静さんの『大人の流儀』(講談社)というエッセイ集に、こんな話が出てくる。

 それから二十五年後の秋の夕暮れ、私は病院で前妻を二百日あまり看病した後、その日の正午死別していた。家族は号泣し、担当医、看護師たちは沈黙し、若かった私は混乱し、伴侶の死を実感できずにいた。
 夕刻、私は彼女の実家に一度戻らなくてはならなかった。
 信濃町の病院の周りにはマスコミがたむろしていた。彼等は私の姿を見つけたが、まだ死も知らないようだった。彼らは私に直接声をかけなかった。それまで何度か私は彼等に声を荒げていたし、手を上げそうにもなっていた。
 私は表通りに出てタクシーを拾おうとした。夕刻で空車がなかなかこなかった。
 ようやく四谷方面から空車が来た。
 私は大声を上げて車をとめた。
 その時、私は自分の少し四谷寄りに母と少年がタクシーを待っていたのに気付いた。
 タクシーは身体も声も大きな私の前で停車した。二人と視線が合った。
 私も急いでいたが、少年の目を見た時に何とはなしに、二人を手招き、
「どうぞ、気付かなかった。すみません」
と頭と下げた。
 二人はタクシーに近づき、母親が頭を下げた。そうして学生服にランドセルの少年が丁寧に帽子を取り私に頭を下げて、
「ありがとうございます」
 と目をしばたたかせて言った。
 私は救われたような気持ちになった。
 いましがた私に礼を言った少年の澄んだ声と瞳にはまぶしい未来があるのだと思った。

 あの少年は無事に生きていればすでに大人になっていよう。母親は彼の孫を抱いているかもしれない。
 私がこの話を書いたのは、自分が善行をしたことを言いたかったのではない。善行などというものはつまらぬものだ。ましてや当人が敢えてそうしたのなら鼻持ちならないものだ。
 あの時、私は何とはなしに母と少年が急いでいたように思ったのだ、そう感じたのだからまずそうだろう。電車の駅はすぐそばにあったのだから……。父親との待ち合わせか、家に待つ人に早く報告しなくてはならぬことがあったのか、その事情はわからない。
 あの母子も、私が急いでいた事情を知るよしもない。ただ私の気持ちのどこかに――もう死んでしまった人の出来事だ、今さら急いでも仕方あるまい……。
 という感情が働いたのかもしれない。
 しかしそれも動転していたから正確な感情は思い出せない。
 あの時の立場が逆で、私が少年であったら、やつれた男の事情など一生わからぬまま、いや、記憶にとめぬ遭遇でしかないのである。それが世間のすれ違いであり、他人の事情だということを私は後になって学んだ。
 人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている。

 僕は自分がイライラしているときに、この文章のことを思い出すことにしている。
 大人というのは、他人の事情を慮ることができる人、なのだという気がする。
 もちろん、僕には、完璧にそれができているわけではないけれど。


 バティスタ選手は、ドミニカのカープアカデミーから日本にやってきて、育成選手から這い上がり、真面目な性格で練習熱心。チームにもよく溶け込んでいた、はずだった。
 だが、それでもこういう事件が起こった。
 僕にはわからない。何らかの検査上の問題であってほしいと願っているが、検査方法を調べてみると、かなり緻密に、かつ「疑わしきを罰しないように」運用されていると感じた。検査をする側だって、「選手生命、あるいは、その選手の人生そのものを変えてしまう可能性がある」という意識があるのだろう。
 調子が悪くて、元気が出れば、と、コンビニで買った栄養ドリンクを飲んでしまった、というような「不注意」だったのかもしれないし、春先の不調に対して、「真面目で熱心」なだけに、責任なりクビになるかもしれない恐怖感なりに負けて、薬物に手を出してしまった可能性もある。
 「悪いこと」をするのは、常に「悪事に慣れている人間」ばかりではない。
 今の自分が立っている場所を失うことを恐れて、真面目で、思いつめるタイプであるがゆえに、粉飾決算などの不正や多額の借金に手を染めてしまう人もいる。
 もちろん、そういう精神的に追い詰められた状況であれば、何をしても構わない、というわけじゃないし、それを防ぐために厳罰が定められている。
 「どういうのが『悪いこと』なのかわからない人間」を罰するのは無意味で、「悪いことだとわかっていながら、精神的に追い詰められてやってしまった人間」が有罪だというのは正しいことなのか?
 

fujipon.hatenadiary.com


 僕にも、何が正しいのかは、よくわからない。ずっと考えているのだが、考えれば考えるほど、わからなくなる。
 みんなに放っておいてほしいときと、誰でもいいから構ってほしいときがある。
 
 この支離滅裂なエントリも、なんだかずいぶん更新間隔が開いてしまったので、何か書かなくてはな、と勝手に考えて書いている。
 たぶん、読む側にとっては、そんなことはどうでもいいのに。
 
 インターネットもだいぶ長い間使っていると、ネットでの「自分らしさ」みたいなものに、あるいは自分が属している「党派性」に縛られて、息苦しくなってくる。
 とはいえ、そこで長年積み重ねてきたものがあると、「自分のネットでの人格を捨てる」ことも難しい。
 一周して、また、匿名掲示板の時代がやってくるのではないか、とも思う。


nlab.itmedia.co.jp

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大人の流儀

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