ああ、なんかこの話の「居心地の悪さ」って、わかるなあ。
運転手さんの行動に反発するような感想を書きたくなるのも、理解できる。
「例外」をひとつ作ってしまったら、今後、同じような申し出があったときには、断れなくなるだろうし。
そもそも、飛行機や電車だったら、こういう事例に対応はしないはずで、「確認せずに乗ったほうが悪い」で済む話でしょう。
ただ、バスというのは、飛行機や電車に比べたら、運行に融通がきいてしまうのも事実だし(そもそも、時刻表通りに来ないことも多い)、人情とは別に、サービス業として、こういうときに親切に対応したほうがプラスになるんじゃないか、という計算だってあるかもしれない。
急病人が出た、というようなケースなら、特急でも緊急停車することはありえるし。
ちなみにこれが「はてなブックマーク」の感想です。b.hatena.ne.jp
「はじめてわかる国語」(清水義範著・西原理恵子・絵:講談社文庫)という本のなかに、こんな話が出てきます。
(清水さんと、古今の「文章読本」について分析した『文章読本さん江』という著書のある斎藤美奈子さんとの対談の一部です)
清水:もうひとつ面白いのはね、文学的指導ね。つまり、「そのときどう思ったの?」というやつです。
斎藤:子どもの作文指導には、必ずそれがありますね。
清水:「目の前で友だちがペタンところんだ。先生が来て助けた」という作文があるでしょ。そのときあなたはどう思ったの? 心の動きを書きなさい、というね。
斎藤:そうそう、それがウザいんだ。
清水:私も最初はやっていたんです。そういうふうに書いたほうが、作文は豊かでいいものになるのかな、と。「みじめだなと思いました」とか「かわいそうだなと思いました」とか書いてあるほうが、「ころんだ」というよりもいいだろうと思っていた。でもどうしてもそれが書けない子がいました。
ところが、その子はそういうことが全く書けないのに、報告文なんかを書かせるとメチャメチャうまかったりすることがわかったの。
斎藤:わかります、わかります。
清水:だから、「心が書けるようになろうね」という側へ引っ張っていってもいい子もいるよ。でも、全員そっちへ持っていこうと思ったら大間違いだということに気づいたんですよ。
斎藤:いい話だなあ。
清水:ある男の子が、学校でやったことを書く作文が、5年生なのに2年生ぐらいのレベルなんですよ。「体育の時間に体操をやった。ころんだ。うまうできた。わりと楽しかった」というやつですよ。何書いてもそうで、これは国語レベルが低い子だなと思っていたんですよ。
そしたらその子が、映画の「タイタニック」が気に入って、調べたことを書いたんです。タイタニックというのは1900何年に何々港を出て、3日間航海して、どこそこ沖で……というのを。自分で調べて書いたんです。そしたら、ちゃんと記事になっている。
だから全然違う才能の持ち主がいるんで、型にはめてはいけないということがわかった。
斎藤:私が知っている子どもは伝記が好きで、シュヴァイツアーはこうでしたとか綿密に書くんだけれども、先生のメモは必ず「それであなたは何と思ったのかな?」とついてくるんですね。
彼としては、そういうことを書くのは美学に反すると思っている。自分が思ったことよりも、ここに出てくるこの人のほうが素晴らしくて、それを先生に教えてやりたいと思っている。ただ、あまりにも「○○君はどう思いますか」というのばっかりくるから、彼は「感動した」と一言つけるというパターンを学んだんです。前と同じように書いて、最後に「感動した」の一言で逃げる。小泉方式です(笑)。
学校は、それでどう思ったかということを書かせるのがいい作文教室だと思っている。
清水:だから子どもは卑怯なことを覚えてしまうわけです。こう書くと先生が喜ぶという技ばっかり身につけているわけです。だから「僕もそういう人になろうと思いました」なんて大嘘をね。
斎藤:それが大人になっても続くんだ。
これは「子どもの作文」についての話なのですが、読んでいて、僕も子どもの頃、読む大人の目を意識して書いていたのを思いだしました。
これは「感動しました」「バスの運転手さんは優しいと思いました」と答えるべき話なのではないか。
でも、それが「唯一の答え」であるとするならば、これを「道徳」の教科書に載せる必要はないですよね。
ちなみに、すっかりオッサンになってしまった僕のこのバスに対する見解は「この運転手さんの対応は、正しくはないかもしれないが、妥当だと思う」というものです。
このくらいは、現場の裁量で、「一時停止」を認めてあげても良いのではなかろうか。
そして、こういうのは、本来はSNSで拡散されるようにやるべきではなくて、その場にいた人たちが、こういう「秘密のルール違反」を黙認し、それで終わりにするのが、世間的な「知恵」みたいなものではないか、と。
その一方で、バス会社側としては「こういう味な対応」というのは、広まってこそ価値がある、のかもしれません。
こういうのって、本当に難しいですよね。
急病人が出たときに電車が臨時停車したり、飛行機が最寄りの空港に着陸したりするのは、他の乗客にとっては不快だろうけれど、自分の身にも起こりうることではあるし、「やめろ」とは言いがたいはず。
でも、この事例では「間違えた本人の責任」だし、「みんながこまる」といっても、そんなに深刻な問題にはならないと思われます。
しかしながら、その場に居合わせた乗客も、どちらかといえば、この解決法が「心地よかった」のではないかと。
「ルールだから」と、このおじいさんの懇願を突っぱねて、車内が落胆で満たされるよりは。
でも、この元エントリを書いた人の感じ方が「間違っている」というわけではなくて、きっと、こういう人が「社会のルール」みたいなものをつくるときに、力を発揮するのだろうな、という気はするんですよ。
世の中というのは、そういう「社会のルール」があって、大枠はそれに基づいて動いていくのだけれど、個々の現場では、そのルールに反しても(あるいは、甘めに解釈して)、状況に応じて対応することが「正解」になる場合もある。
もっとも、そういう「空気を読む」みたいなことを要求されるから、サービス業というのはひたすらややこしくなっていく、というのも、僕が実感しているところではあるのですけどね。
「ルールを、ひたすら厳格に運用する」ほうが結果的に無難ではあるんだよなあ。
- 作者: 清水義範
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