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また三浦瑠麗さんが話題になっているようなのです。
三浦さんがメディアに露出しはじめた時期には、「へえ、こんな見目麗しい若手国際政治学者、なんて人がいるのだなあ」と感心したのですが、三浦さんが自民党の高村正彦さんと対談している本を読んで、僕はなんだか冷めてしまいました。
この対談を読んでの率直な印象は、高村正彦さんというのは、すごく優秀で、現実をみている政治家なのだな、ということでした。
三浦瑠璃さんについては、「なんで『国際政治学者』って、みんなこんなに国とか国民とかをゲームの駒のように語りたがるのかな」という不快感があったのですけど、それは、三浦さんが極めて頭が良い人であるのと同時に、国際政治学というのは、そういう学問である、ということなんでしょうね。
舛添さんも、こういう、「ものすごく頭が良いのだけれど、他人を駒のように見ている人」だったような気がするので、これはもう、そういうふうになってしまう職業なのかもしれません。
医者が「患者を診ずに、病気を見ている」とか言われがちなのと同じように。
三浦:論壇の中には、最近だと『永続敗戦論』をお書きになった白井聡さんとか、少し前だと『敗戦後論』の加藤典洋さんのように、「日本は戦後に新しいものを作り上げたと思っているが、内実は全然変わっていない。日本は敗戦し続けているんだ」と考える人たちがいます。そこには、敗戦を一つの「現在」として、善悪や倫理の問題として捉える発想があります。1980年代生れの私は、親の世代が既に戦争を知りません。私には、戦争を原罪としてウェットに位置づける発想が今ひとつピンとこないんです。
日本のどの地方に講演に行っても、「日本はなぜ原爆を落とされたのか?」という質問が毎回必ず飛んできます。これまでも繰り返し指摘されてきたことですが、戦争に対する加害と被害の両面を持つというある世代までの日本人のアイデンティティーの根幹にある問題なのだろうと思います。すごく突き放した言い方になってしまいますが、アメリカのロジックに従えば、そちらから先制攻撃をしかけてきて総動員の戦争をやっているのだから、こちらが持っている兵器を全部使うのは当然だろ、となるはずです。だから、敗戦を「日本の原罪」として論じる必要なんてないし、日本人は「それはそういう不幸な時代だったね」と解釈しておけばいいと思います。
敗戦を「日本の原罪」ととらえている限り、「9条の制約を取り払ったり、集団的自衛権を兼ね備えたりしたら、日本はとんでもない好戦的な国になる!」という思い込みや、逆に「もう1回原爆を落とされるような災禍が降りかかってくる」みたいな思い込みを払拭できない気がします。
1970年代生まれで、子どもの頃、広島で「平和教育」を受けてきた僕にとっては、この三浦さんの話、理屈はわかるけれど、感情としては、「なんでそんなに客観視できるんだ、原爆資料館に行ったことがあるのか?」とか思わずにはいられないんですよね。
これは世代や受けてきた教育の問題なのかもしれないけれど、僕はあの戦争を実際に体験してきた人たちが、「もう戦争はしたくない」と言い続けていることを、未体験の人間が「そういう不幸な時代だったね、と解釈する」ことに違和感があるのです。
そういう点では、三浦さんよりも、高村さんのほうが、現場の人間として、「日本人が戦争に加わらないためには、国民の安全を守るためには、どうすればいいのか」を批判されながらも摸索し続けているように感じました。
実際のところ、日本に北朝鮮の工作員がいるかいないか、と問われたら、僕は「いるんじゃないか」とは思っています。
それこそ、佐藤優さんや池上彰さんに毒されているのかもしれないけれど、過去の歴史で起こったことも踏まえて考えると、どこの国も、それなりの表に出ない諜報・情報収集活動をしているのではなかろうか。ウィキリークスでの情報漏洩とかもありましたしね。
佐藤優さんによると、そういう情報の大部分は現地の新聞や雑誌の記事に載せられているものだそうですが。
おそらく、大部分の日本人は、いまの日本にも、「そういう人」は存在する、と思っているのではないでしょうか。
でも、誰がスパイなのか、なんていうのは素人にはわからない。すぐにわかるような工作員じゃどうしようもないですし。
そういうことを『ワイドナショー』で発言して、「仮想敵」を顕在化することによる「国民の意識を高める」というメリットと、それによって差別やヘイトスピーチがひどくなる、というデメリットを比較すると、現状では、後者のほうがはるかに大きいと僕は思うのです。
町山智浩さんもツイートされていましたが、関東大震災のときのデマによる朝鮮人虐殺や同時多発テロ後のアメリカでのイスラム教徒へのバッシング、ルワンダでフツ族とツチ族のあいだに起こった大虐殺など、それまで共存してきた人たちが、何かのきっかけで「敵対」することによって、とんでもない大虐殺が起こることもあるのです。
『アフリカ―資本主義最後のフロンティア』という新書のなかに、こんな話が出てきます。
ルワンダという国は、1994年に起きた「ルワンダ大虐殺」で世界に知られることになりました。
人口の8割以上を占める多数派のフツ族と1割ほどの少数派ツチ族。
1994年に政権を握ったフツ族の強硬派が、ラジオなどで人々を扇動したことで、2つの民族の対立が激化し、100日間で80万人以上の人々が犠牲になったと言われています(「今も死者の数は正確にはわからない」ということです)。
ところが、このルワンダは、近年、「アフリカの奇跡」と呼ばれる、めざましい復興をとげているのです。
ツチ族でありながら、フツ族の農民と共同で、コーヒー農園を開こうとしているピエールさんが、この本のなかで紹介されています。
「ちょっと見せたいものがあるんです」
フツ族の村に行く途中、ピエール氏はある小さな丘で車を止めた」
「ここは私の母親が住んでいた村です。ちょっと一緒に歩きませんか」
丘の稜線を歩くこと10分ほど。こんもりと木が茂った一角があった。母親が住んでいた家の跡だった。近づいてみると、レンガ造りの壁がわずかに残っているだけ。大虐殺の際、隣人のフツ族によって破壊され、何もかも略奪されていた。
私は思い切ってピエール氏に疑問をぶつけた。あなたは、母親の命を奪った相手をなぜ赦すことができるのか? 怒りや戸惑いはないのか?
「もちろん最初は赦すことなんてできませんでした。フツ族の人間とすれ違うだけで、言いようのない怒りがこみあげてきて、自分を抑えることができませんでした」
ピエール氏は胸に手をあてて自分に言い聞かせるように言葉を続けた。
「しかし、怒りに我を忘れそうになったときに、母親がいつも私に言い聞かせていた言葉を思い出したのです。それは『ツチ族もフツ族も同じルワンダ人なんだ。必ずともに生きていける時代が来る』という言葉です。私は母が遺してくれたその言葉を今も信じているのです」
ツチ族もフツ族も同じルワンダ人――。ピエールの母親が残した言葉。それは実は歴史的にも、科学的にも正しい考え方だ。もともと2つの民族は同じ言葉を話し、同じ文化を共有し、その境界線はあいまいだった。民族を超えた結婚も盛んに行われていた。
(中略)
そうした中、フツ、ツチという2つのグループを民族として峻別し、優劣をつけたのがベルギーによる植民地支配だった。
そもそもベルギーはなぜツチ族を優遇したのか? その理由は実にあきれたものだった。ツチ族には比較的背が高くて鼻筋が通った人が多く、欧米人に似ている。だから優れた民族だというのだ。
当時、ヨーロッパでは、ナチスによるユダヤ人差別の理論的な支柱となった優生思想が流行していた。民族には優劣がある、そして欧米人がその頂点に立つ、という誤った思想だ。最終的にホロコーストに行き着いたこの思想がアフリカの地に伝わって、2つの民族を分断し、後の大虐殺を生みだすことにつながったのだ。
対立の中、「同じルワンダ人」の共存共栄を信じていた、ピエールさんのお母さん。
憎しみの連鎖のなか、こんな素晴らしい人がいたのだ、ということ、そして、その志を受け継いで、憎しみの連鎖を超えようとしている息子さんがいるということに、涙が出てきました。
でも、考えてみてください。
裏を返せば、「ピエールさんのお母さんのような『ルワンダ人の未来』を信じていた人がいたにもかかわらず、あの大虐殺は起こってしまった」のです。
人は本当に弱いものだし、ひとりの人間の「善意」なんて、圧倒的な暴力の前では無力です。
日頃は「共存共栄」を求めていた人でも、虐殺がはじまったら、武器をとらずにはいられなくなっていた。
植民地時代に外国人が「自分たちに少しは似ているかどうか」ではじめた、バカバカしい「差別」でさえ、こんな惨劇につながってしまう。
日本という国の安全保障としては、「テロを起こす可能性がある人や組織を警戒する」というのは当然のことです。
公安が「性善説」でやっていけるほど、世の中は簡単ではない。
でも、一般の人たちは、むしろ、そういう「国家の安全保障のために、個人が犠牲になること」に警戒すべきであって、「怪しいやつはスパイだと思え」という安易なメッセージに動じるべきではない。
こういうのって、一度「憎しみの連鎖」が生まれれば、それを止めるのは難しいから。
三浦さんというのは、若くて外見が良いということで、メディアから祭り上げられて、有名な政治家や権力者ともつながりができ、そうしてつくられた「国際政治学者・三浦瑠麗」というイメージに自ら踊らされているようにみえます。
彼女は、シミュレーションゲームのプレイヤーであり、世界はそのステージで、人々はその駒である。
基本的に、国際政治学者というのは、そういうものの見方をする人たちなのかもしれませんが。
これは自戒せざるをえないのですが、インターネットで「論客」的なことをやろうとすると、こういう視野に立ってしまいがちなんですよね。
自分は神聖不可侵のゲームマスター、あるいは、コマンドを入力するだけのゲームプレイヤーである、という。
「徴兵制の復活を」という人は、自分が真っ先に徴兵される覚悟があるのか。
「日本を戦争ができる国に」という人は、インパール作戦に一兵卒として従軍することを想像したことがあるのか。
そういう現実を無視して、ゲームマスターになれるのがネットの「楽しさ」ではあるのだけれど。
吉本隆明さんが、1988年に、「日本経済を考える」という講演のなかで、こんな話をされています。
なんといいますかね、素人であるか玄人であるかということよりも、経済論理というのは、大所高所といいますか、上のほうから大づかみに骨格をつかむみたいなことが特徴なわけです。それがないと経済学にならないということになります。
そうすると、もっと露骨に言ってしまえば、経済学というのはつまり、支配の学です。支配者にとってひじょうに便利な学問なわけです。そうじゃなければ指導者の学です。
反体制的な指導者なんていうのにも、この経済学の大づかみなつかみ方は、ひじょうに役に立つわけです。ですから経済学は、いずれにせよ支配の学である、または、指導の学であるというふうに言うことができると思います。
ですからみなさんが経済学の――ひじょうに学問的な硬い本は別ですけど、少しでも柔らかい本で、啓蒙的な要素が入った本でしたら――それは体制的な、自民党系の学者が書いた本でも、それから社会党、共産党系の学者が書いた本でも、いずれにせよ自分が支配者になったような感じで書かれているか、あるいは自分が指導者になったような感じで書かれているのかのどちらかだということが、すぐにおわかりになると思います。
しかし、中にはこれから指導者になるんだという人とか、支配者になるんだという人もおられるかもしれませんし、またそういう可能性もあるかもしれません。けれどもいずれにせよ今のところ大多数の人は、なんでもない人だというふうに思います。つまり一般大衆といいましょうか、一般庶民といいましょうか、そういうものであって、学問や関心はあるかもしれない人だと思います。
僕も支配者になる気もなければ、指導者になる気もまったくないわけです。ですから僕がやるとすれば、もちろん素人だということもありますけど、一般大衆の立場からどういうふうに見たらいいんだろうということが根底にあると思います。
それは僕の理解のしかたでは、たいへん重要なことです。経済論みたいなものがはやっているのを――社共系の人でもいいし、自民党系の人でもいいですが――本気にすると、どこかで勘が狂っちゃうと思います。指導者用に書かれていたり、指導者用の嘘、支配者用の嘘が書かれていたり、またそういう関心で書かれていたりするものですから、本気にしてると、みなさんのほうでは勘が狂っちゃって、どこかで騙されたりします。
だからそうじゃなくて、権力や指導力も欲しくないんだという立場から経済を見たら、どういうことになるんだということが、とても重要な目のように思います。それに目覚めることがとても重要だというふうに、僕は思います。それがわかることがものすごく重要だと思います。自分が経済を牛耳っているようなふうに書かれていたり、牛耳れる立場の人のつもりで書かれているなという学者の本とか、逆に一般大衆や労働者の指導者になったつもりでもって書かれている経済論とか、そういうのばっかりがあるわけです、それはちゃんとよく見ないといけないと思います。
そうじゃなくて、みなさんは自分の立場として、自分はなんなんだと。どういう場所にいて経済を見るのかを、よくよく見ることが大切だと思われます。こういうことは専門家は言ってくれないですからね、ちょっと僕が言ったわけですけども。
この「経済」は、「政治」にも言い換えられると思うんですよ。
吉本隆明さんという人が、「権力」と無縁の存在だったかどうかは微妙なのですが、「自分が(あるいは発言者が)いま、本当に立っている場所」を確認することは、こういう「論客ごっこ」ができる時代だからこそ、すごく大事だと感じます。
三浦さんが鳴らしている警鐘はとりあえず意識の片隅には置いておくとしても、一般人としては、なるべく周囲の人と信頼関係を築きあって日常を生きていくしかないと思うのです。
いつかは、それも崩れるかもしれない。でも、自分から崩しにいくのは、もったいない。
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