いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「いまの自分の立場から世の中を見て、言葉にする」ということ


zuisho.hatenadiary.jp


このズイショさんの文章が、僕は気になって仕方がなかったのです。
ここには、僕がうまく言葉にできなかったことが書いてあると思うのだけれど、いまの僕には、うまく消化しきれないというか、読みこなせていない。
なんだか、すごくもどかしい。


以前読んだ、吉本隆明さんのこんな言葉を僕は思い出しました。


fujipon.hatenadiary.com

この本に付属のCDには、こんな内容の吉本さんの講演の一部が含まれています。
(1988年「日本経済を考える」より)

 なんといいますかね、素人であるか玄人であるかということよりも、経済論理というのは、大所高所といいますか、上のほうから大づかみに骨格をつかむみたいなことが特徴なわけです。それがないと経済学にならないということになります。
 そうすると、もっと露骨に言ってしまえば、経済学というのはつまり、支配の学です。支配者にとってひじょうに便利な学問なわけです。そうじゃなければ指導者の学です。
 反体制的な指導者なんていうのにも、この経済学の大づかみなつかみ方は、ひじょうに役に立つわけです。ですから経済学は、いずれにせよ支配の学である、または、指導の学であるというふうに言うことができると思います。
 ですからみなさんが経済学の――ひじょうに学問的な硬い本は別ですけど、少しでも柔らかい本で、啓蒙的な要素が入った本でしたら――それは体制的な、自民党系の学者が書いた本でも、それから社会党共産党系の学者が書いた本でも、いずれにせよ自分が支配者になったような感じで書かれているか、あるいは自分が指導者になったような感じで書かれているのかのどちらかだということが、すぐにおわかりになると思います。
 しかし、中にはこれから指導者になるんだという人とか、支配者になるんだという人もおられるかもしれませんし、またそういう可能性もあるかもしれません。けれどもいずれにせよ今のところ大多数の人は、なんでもない人だというふうに思います。つまり一般大衆といいましょうか、一般庶民といいましょうか、そういうものであって、学問や関心はあるかもしれない人だと思います。
 僕も支配者になる気もなければ、指導者になる気もまったくないわけです。ですから僕がやるとすれば、もちろん素人だということもありますけど、一般大衆の立場からどういうふうに見たらいいんだろうということが根底にあると思います。
 それは僕の理解のしかたでは、たいへん重要なことです。経済論みたいなものがはやっているのを――社共系の人でもいいし、自民党系の人でもいいですが――本気にすると、どこかで勘が狂っちゃうと思います。指導者用に書かれていたり、指導者用の嘘、支配者用の嘘が書かれていたり、またそういう関心で書かれていたりするものですから、本気にしてると、みなさんのほうでは勘が狂っちゃって、どこかで騙されたりします。
 だからそうじゃなくて、権力や指導力も欲しくないんだという立場から経済を見たら、どういうことになるんだということが、とても重要な目のように思います。それに目覚めることがとても重要だというふうに、僕は思います。それがわかることがものすごく重要だと思います。自分が経済を牛耳っているようなふうに書かれていたり、牛耳れる立場の人のつもりで書かれているなという学者の本とか、逆に一般大衆や労働者の指導者になったつもりでもって書かれている経済論とか、そういうのばっかりがあるわけです、それはちゃんとよく見ないといけないと思います。
 そうじゃなくて、みなさんは自分の立場として、自分はなんなんだと。どういう場所にいて経済を見るのかを、よくよく見ることが大切だと思われます。こういうことは専門家は言ってくれないですからね、ちょっと僕が言ったわけですけども。


 インターネットでの誰かの「意見」に対して、なんだかとても居心地が悪くなることがあります。
 「自分が経済を牛耳っているようなふうに書かれていたり、牛耳れる立場の人のつもりで書かれているなという学者の本とか、逆に一般大衆や労働者の指導者になったつもりでもって書かれている経済論」みたいなものって、ネットの中には、「経済」に限らず、たくさんありますよね。

 ネットでは、多くの人が、世の中を「俯瞰」することができるけれど、現実では、ひとりの力でできることは少ないし、大概は、何かをしようとすらしない。
 極端な例ですが「日本を良くするためには、徴兵制が必要だ!」と声高にネットで叫んでいる人がいたとする。
 でも、その人は「実現したら、自分も徴兵されるかもしれない」ことを想像できていない。
 召集令状が来たときに「しまった!」とか思うわけです。

 「社会」とか「常識」とか、大きなものを持ち出してきて、他者を責める人は多いけれど、その大きなものが、つねに自分の味方をしてくれるとは限りません。というか、そういうものに相対すれば、虫けらみたいなもんですよ、ひとりの人間なんて。


 その一方で、ネットのなかでは、「自分のほうが、相手よりも弱者だとまわりにアピールすること」が物事を有利にすすめるための手段になりうるのです。
 逆マウンティングというか、「自分のほうがマイノリティで、かわいそう」とか、「自分のほうが弱者の気持ちがわかる」とか。


 以前、長距離トラックドライバーの仕事のきつさを朝日新聞が大きくとりあげていた際に「そのドライバーたちは朝日新聞なんて読んでないよ」と皮肉を言っていた人がいました。僕もそうだと思っていました。ただ、そういう物事を言葉や社会運動にして世の中を変えていくのは、当事者ではなくて、運動家だったりもするわけです。そういうのは、とてももどかしいことだけれども、変わらないよりはマシ、だとも思う。
 労働組合なんてめんどくさいな、と敬遠していても、彼らが取ってきた賃上げの回答を「自分は給料上がらなくてもいいです」と言う人はいない。



この一連のツイートを読みながら、僕は「どうしたら良いのかねえ……」と考え込まずにはいられませんでした。
僕自身も、同僚の女性医師の妊娠・出産の影響を受けたこともあるし、うちの子が生まれる前には、多少なりとも、他の医者に影響も与えたのではないかと思います。
人が生きる、自分が幸せになるということには、どうしても、きれいごとでは済まない部分がある。


fujipon.hatenablog.com


医者は激務だ、当直がきつい、働き方改革、とはいっても、いざというときに救急病院が「今日は当直をしたい医者がいなかったので休みます」という状態だったら、みんなそれを受け入れられるでしょうか?
その現場がきついほど「当直したい人なんて誰もいないけれど、誰かが自分の仕事だからと嫌々ながら引き受けて不眠不休でやっている」のです。

女性医師を活かせないのはシステムの不備ではあるし、根本的な改革が必要だと思います。
とはいえ、現状は「正しいことを実現しようとして頑張っている人ほど、板挟みにあって、きつい思いをしている」のです。
そして当事者の発言には、理想を振りかざす言葉よりも、ずっと多くの「改善」のヒントが詰まっている。


そんなの医者の、エリート様の世界のことで、関係ない、という人も大勢いるはず。
だからこそ、こちら側としては、いま、現場で感じていること、考えていることを発信することに価値がある。
医療の世界だけではなくて、それぞれの人が、自分の立場から見えていること、本当に感じていることを表明していくのが、大事なのです。


いろんなところで、利害や感情の衝突はあるだろうけど、みんなが総理大臣になったつもりで、「世の中を良くする方法」や「社会の悪を糾弾するコメント」を書いていると、理想と現実の溝は埋まらない。
でも、「自分の立場からみた世界」を正直に書くと、「あなたは間違っている」と責められることが多すぎる。責める人たちにとっては、それが「本心」なのだろうか。


まあ、こんなことを書いている僕も「なんか言わないと気が済まないめんどくさい人間」のひとりなわけです(しかも、あまり嫌われすぎないように自分なりに精一杯「配慮して書いている」)。

世の中を良くするっていうのは、本当に難しい。そもそも、「良い世の中とはどういうものか」が、人それぞれ違うのだから。


fujipon.hatenadiary.com

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