いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

いま、「ニュース」と呼ばれているものの正体について

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週刊文春記者「小室哲哉の引退は本意ではない結果になった、残念」「ただ小室哲哉が不倫している事については絶対の自信があります」週刊文春の公式ツイッター炎上:ハムスター速報



 今回は『文春砲』のほうが炎上しているらしいのですが、僕は正直、「なぜ、ベッキーさんや山尾志桜里さんは叩かれて、小室さんは擁護されるのか?」と疑問ではあるんですよね。
 「介護は本当に大変で、精神的な支えは必要」というのはわかるけれど、『週刊文春』の記事が捏造でなければ、少なくとも「不倫だと誤解されても仕方がない状況」があったわけだし、ベッキーさんや山尾さんは、相手の男性もその配偶者も責任能力のある大人であり、婚姻関係がこじれても、生きていける人でした。大人としての判断能力を失ってしまったパートナーであれば、免罪されるっていうのは、むしろ逆じゃないのかなあ。つらい、きついのはわかるけど、なんだか世の中が「介護は大変だから、不倫やむなし、許してやれよ」っていう雰囲気になるのは、それはそれで怖い。小室哲哉は才能があるミュージシャンだから、というのは、才能があれば何やってもいいのか、って思うし。
 これ、一般人の男が同じように介護が必要になって、妻が「つらくて不倫」したら、みんな許すのだろうか。才能がないからダメ、なの?
僕は男ですが、やっぱり世間は男の不貞には甘いのか、とも感じます。渡辺謙さんとか桂文枝さんとかの事例をみても。


 ベッキーさんや山尾さんは反省の色がないことにむかつく、という気持ちはわかる。僕もこの二人は「嫌い」だから。
 ただし、ベッキーさんについては、芸能界からこれだけ干された時点で、いわゆる「社会的制裁」は十分食らっているので、あとは世の中のニーズがあるかどうか、だけじゃないのかな。かわいそうだから、無理にテレビに出してやれ、っていうのもおかしな話なので。
 山尾さんについては、政治家として、自分が他人に言っていること、求めていたことと、自分自身の行動規範がズレていたというだけで、僕は政治をやる人間としては信用できません。政治家でなくなれば、プライベートはお好きなように。


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 小室さんの引退会見を映像でみると、本当に疲れている様子がうかがえるのですが、引退については、『文春砲』が直接のきっかけになったとはいえ、本人もずっと「(自覚的な)才能の枯渇」に苦しんでいたことに言及しています。
 もともと引き際とか休養を考えるような状態のなかで、「文春砲」がとどめになった。


 『週刊文春』だけの責任なのか?
 ずっと「死にたい」と訴えていた人からの夜中の電話を鬱陶しくなって取らなかったら、その直後に自殺した。
 それは、電話を取らなかった人だけの責任なのか?
 ……まあ、他人は何と言おうと、電話を無視したことを当事者はずっと後悔しつづけるのも人生、ではあるのですけど。


 「弱っている人を責めるべきではない」と思うけれど、豊田真由子議員だって、ベッキーさんだって、だいぶ弱っていたはず。
 それが生んだ結果が「引退」という重いものだったから、という「結果責任」によって、「公人について報道することの是非」を問うべきなのだろうか?
 それなら、打たれ強い人はいくら叩いてもいいのか?
 僕は、小室さんがKEIKOさんの介護をテレビやメディアで公言し、それが収入につながっていたと思いますし、それによって、詐欺事件などでダウンしていたイメージが改善したことも事実です。
 今回の不倫疑惑は、一般人であれば、報道する必要は全くない事例ですが。


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 「あんなに頑張っていたみたいだったけど、現実は人間こんなものだよね」
というのが僕の率直な印象ですし、若いころプロデュースしていた女の子をとっかえひっかえしていた人だからな、とも思う。
 「文春、わたしたちの小室さんを返して!」って言うけどさ、この人たちは、最近の小室さんの曲もずっと聴いていたのだろうか。
 聴いている人が少ないからこそ、小室さんも悩んでいたんだろうし、だからみんな聴け、っていうようなものでもないし。


 いまの時点で、とりあえず休養することは悪い選択じゃないはずです。
 やりたくなったら、また復帰すればいい。
 芸能界って、そういうところだからさ。
 ほとんどの場合、解散は再結成、引退は復帰の予告でしかない。


 冒頭の記事をみていて、僕は最近読んだ2つの本に書いてあったことを思い出しました。

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 元『週刊文春』編集長の花田紀凱さんと、元『週刊新潮』副部長の門田隆将さんの対談本です。

門田:週刊文春』も『週刊新潮』も、そろそろ転換が必要だと思いますよ。最近の文春砲を見ると、パターンがあって、何でも「被害者の告発」にしてしまっていますよね。そんな作り方が必要なのかわかりません。だから、最近は告発記事全般が信用していいのかどうか、怪しくなっています。


花田:しかも、『週刊文春』は芸能ネタのスクープが多い。新谷編集長に言ったことがあります。「AKBの女の子がデートしたっていいじゃない。年頃なんだから。それを、夜の夜中に、大の男ども四、五人が張り込んで、そんな写真を撮ってどうなるの」と。
 ただ、新谷編集長に言わせるそれをネットで先に流すと、テレビが飛びついてくるし、雑誌本体も売れる。それに、第一章でも話に出たように、テレビが雑誌の記事を使うと、お金になる。だから芸能ネタをやることになると。
 だけど、こういうことをやっていると、やめられなくなります。それは自らの首を絞めることになる。『週刊文春』が生き残っていくためには、ぼくも方向転換したほうがいいと思います。今のようなネタをやるのだったら、別の媒体でやればいい。たとえば、ネットだけでやるとか。


門田:たとえば、もし、志あるネット企業が私に「あなたを雇って、軍団を作ってもらいましょう。ただし、お金がかかりすぎるのは困るので10人だけにしてください」と言ったら、それはできますよ。
 しかし現状のように、原稿料も払わず、タダで提供するのがネット文化の本質なのだとしたら、収益をあげるのは難しくなります。人の褌で相撲を取る文化の域を脱せられないわけですから。そこが、今後どうなっていくかですよね。
 ネットでの収益と言えば、一つは、広告収入モデルなのでしょう。たしかにネットに投じられる広告費はどんどん増えています。最初、ネット広告が雑誌の広告を抜いたと聞いたときは驚きましたが、次には新聞広告も抜きました。
 でも、広告収入モデルで、『週刊文春』や『週刊新潮』のような「告発型ジャーナリズム」ができると思いますか(笑)。

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 いまはネット発の情報がマスメディアを席巻しているともいえる。
 たとえばスポーツ紙の電子版に顕著なのだが、とにかく芸能人がブログを更新した直後、あるいはテレビ番組で波及力のある人物が発言をした後に「〇〇がブログで××と主張した」「〇〇が××(番組名)で□□と疑問を呈した」といった形の記事ができる。恐らく、ひたすらアメブロを始めとした芸能人ブログをチェックする担当者がいるのだろう。社員ではないのかもしれない。とにかく彼らは早いのだ。アメブロ芸能人ブログのトップページでは検索機能がついている。また、新たな更新順にブログを見ることができる。この両方を駆使し、「〇〇がブログで××と主張した」記事を出せるのだ。検索機能を使い、ひたすら「妊娠」「入籍」「結婚」「離婚」「出産」「誕生」などのキーワードを入れれば最新の「妊娠した芸能人」「結婚した芸能人」などを知ることができる。さすがにこれらの人生の一大事は頻繁には起こらないが、もう一つのテクニックがある。
 それは、話題のキーワードを入れることだ。たとえば、お笑い芸人・ガリガリガリクソンが飲酒運転の疑いで逮捕(後に釈放)されたが、この時、アメブロ芸能人ブログのトップの検索欄に「ガリガリガリクソン」という名前を入れれば、彼のことを批判する芸能人のことを発見できるのだ。そして「〇〇が飲酒運転疑惑で逮捕のガリガリガリクソンを批判」という記事が一本完成する。
 結局、かつての新聞記者が「足で稼げ」ではなく、「検索で最新情報を集め、他社よりも早く世に送り出せ」といった記事づくりが隆盛を極めているのである。


 『週刊文春』が報じたスキャンダルをテレビやネットニュースが採りあげ、それに対するほかの芸能人や有名人、そしてネットでの反応がニュースになっています。
 さらに、ワイドショーが『週刊文春』の記者に感想を求めた番組の内容を、また新聞社がネットニュースにしているのです。
 そして、ネット上の「ニュースサイト」が、それへの反応を記事にする。


 こういうのを読んでいると「ニュース」って、何なのだろうな、と思うんですよ。
 それを読んで、こんなエントリとか書いている僕自身も、愚かだよなあ、と考え込んでしまうのです。
 時間は有限なのに。そして、小室さんの記事は、「介護者の孤立という普遍的な問題」に昇華することだってできるはずなのに。
 忙しい、と言いながら、自分のしっぽを追いかけてグルグル回る犬みたいなことをやっている。


 こういうニュースは手間のわりにPV(ページビュー)が稼げて、濫造できるというのは、中川淳一郎さんの本に書いてあるとおりです。
 一方、国際情勢とか経済記事、本当に困っている人の叫びは、手間のわりにはPVが稼げなくて、端に追いやられてしまう。
 いまの収益のシステムだと、『週刊文春』のスキャンダルをマッチポンプ式にいろんなメディアが煽ったもので稼いだお金が、「良質だけど読まれない記事」の原資になっているのも事実なのです。


 最近、「情報」って何なのだろうな、と考えてしまうのです。
 僕は長年、「知ること」に興味を持って生きてきたけれど、知ったことのなかで、本当に人生の役に立った、と言えることが、どのくらいあったのだろうか。
 他人にあれこれ言うための材料を集める時間で、自分や周りの人たちのために、もっとできることがあったのではないか。
 そもそも、「何かを叩きたい」という理由で、「叩けるもの」を探す行為は「情報収集」といえるのだろうか?
 のび太に「なんかムシャクシャしているから、殴らせろ」と言うジャイアンみたいなものではないのか。
 そして、なぜわれわれは、自分がつねにジャイアンだと信じていられるのか。
 ジャイアンにだって、頭が上がらないお母さんがいるのに。


 たぶん、知ることそのものは、人生でなかなか代替しがたい快楽なんですよね。
 でも、時間が有限であることを考えると、「自分が情報だと思っているものには、そんなに価値があるのか?」検討してみたほうがいい。
 「ずっと何かを叩いている人」として死ぬまで生きるのは、あまりにも勿体ないから。


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