いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

僕は、「普通のことができない子供」だった。


aniram-czech.hatenablog.com


 僕は、「普通のことができない子供」だった。いや、いまでも「普通のことができない大人」なんですけどね。
「普通」とは何か、というのはかなり難しい問題ではあるのだけれど、今回は「なんでそんなことができないの?」と大部分の人に驚かれるようなこと、と勝手に定義させていただく。
 以下、僕が悩んできた「子供時代にできなかった普通のこと」を書いていく。


(1)買い物ができなかった(レジに並べなかった)。
 とくに書店。別にHな本を買いたかったわけではないのだけれど、小説やマイコンの本をレジに持っていくのが、本当に苦手で、小学校の高学年くらいまで、親や兄弟に払ってもらっていた。お金は持っていても、自分がどんな本が好きかを知られるのが、ものすごく恥ずかしかったし、「こんなにたくさん買うのか」とか思われるのではないかと想像するのが怖かった。まあ、当時の『テクノポリス』とか『ポプコム』には、「そりゃ子供が買うのは恥ずかしいだろ」という表紙のときもあったんですけどね。これは今では克服しているというか、ちょっと買いにくい本はAmazonという手があるし。
 しかし、大人になっても『完全自殺マニュアル』を買うのはけっこう勇気が要ったし、他人事ながら、「セックスできれいになる」とかいう表紙の女性誌を手にとってレジに行くって、抵抗ないんだろうか?とは、今でも思う。



(2)友人をあだ名(ニックネーム)で呼ぶことができなかった。
 同級生をどう呼んでいいのかわからなかったというか、「〇〇くん」では、ちょっとよそよそしいし、「××(ニックネーム)!』で呼ぶのは近すぎるというか、相手は「お前にそんなふうに馴れ馴れしくされる覚えはない」と思われているのではないか、とか考えてしまって、うまく声をかけることができなかったのだ。
 これは、大学時代の部活で、「先輩はすべて、〇〇先輩」、「後輩男子は苗字呼び捨て、女子は××さん」に統一する、というルールを自ら設けることによって、身近なところではクリアした。
 この点では「先生業界」で働いていることは、たいへんありがたく感じている。同僚は上司も年下も「〇〇先生」で済むし、その他の人は「苗字+さん」で、大過なく過ごせるから。
 世の中的には、お互いに「先生」と呼び合うのは気持ち悪い、と感じる人も少なくないのだろうが、僕としてはかなり助かっている。
 明確なルールがあるほうが、僕の場合は生きやすいのだろう。



(3)温泉の大浴場が苦手だ。
 こういう人は少なくないのかもしれないが、世の中の大部分の人は「温泉は気持ちいい」「人間はみんな大浴場でゆったりとお風呂に入るのが好き」だと思い込んでいるのがつらい。
 僕は残念ながら女湯には入ったことがないので(乳幼児期には入ったことがあるかもしれないが、記憶はない)、男湯だけの話になるのだが、あの、みんながブランブランさせながら、タオルをペチペチやって、ぬんっ!とかやっているような「オトコ自慢のステージ」的な雰囲気がものすごく苦手なのだ。タオルとか巻いてるんじゃねえよ、と思われているんじゃないか、とか気になってしょうがない。まあ、コンプレックスなんだけれども、それを再確認するために、わざわざ大浴場に入りたい、とも思わないわけで。いや、今は子供がいるから、自分のなかのモヤモヤを知らんぷりして、一緒に入りますけどね。



(4)鏡や自分が写っている写真を見ることができない。
 ほんと、何かの間違いで見てしまうたびに「自分の顔って、こんなのだったっけ……」と悲しくなる。自撮りとかできて、それをインスタグラムとかで公開できる人が心底羨ましい。しかし、教訓的な話をしておけば、自分の顔が苦手であればあるほど、若いころから鏡をみて、どんなふうに筋肉を動かしたら、どんな表情ができるのか研究しておいたほうが良いと思う。僕はいまだに、記念写真などで「笑って」と言われても、どうやって笑えばいいのかよくわからず、ひきつった顔で写ってるよ、と言われて、さらに写真が嫌いになる(もちろん自分では確認しない)。綾波レイか!



(5)電話が苦手だ。
 かけるのも受けるのも。
 以前も書いたことがあったと思うのだが、用事があっても、いまちょうどお風呂に入ったり、夕食を摂っている時間かな……と遠慮し、人気のテレビドラマが放送されている時間だから邪魔しちゃ悪いかな、と思い、逡巡しているうちに「もう遅いから今日はやめよう」を繰り返していた。
 連絡をさぼっていたわけじゃなくて、ずっと気になっていたけど、できなかったんだよ、と言っても、相手は「何それ」って感じなわけで。
 いまはメールやLINEのおかげで便利になったというか、電話よりマシにはなったような気はするけれど、アプリを立ち上げるのもけっこうめんどくさいし、電話が廃れてくると、こういうのも「即レス」的なものが求められているような気がして、それじゃ意味ないだろう、と言いたくなる。
 ただ、こういう人はけっこう多いということも、ネットのおかげで知った。


 
 まだまだたくさんあるのだけれど、こんな話を延々と聞かされても気が滅入るだけだと思うので、とりあえず5つだけ挙げてみた。
 どれもこれも、「甘えてるんじゃねえよ!」とか、「世の中には、もっと深刻なレベルで、日常生活がおくれないくらい『できない』人がたくさんいるんだよ!」と言われそうなことばかりなのだが、僕は僕で、こんなくだらないことでも、日々真剣に悩んできた。
 年齢とともに克服できるようになったり、テクノロジーの進化や立場の変化で、迂回できるようになったりして、なんとか生きている。
 あらためて考えてみると、僕は「ルールや法則」がある程度しっかりしている場所のほうが生きやすくて、自意識が過剰な人間なのだろうな。
 

 ネットのおかげで、いろんな人がいるというのを知ることができたのも大きい。
 多少のイレギュラーなら、「私も!」と同調してくれる人は、けっこういる。


 その一方で、自分にとっては大きなコンプレックスに「みんなそうだよ」と言われてしまうことに、ちょっとがっかりすることって、あるんだよね。
 自分は他人とは違う、というのは、悩みでもあり、自分が特別な人間ではないか、という期待のよりどころに、少しだけなっていることもあるのだ。
 ネットの世界を眺めていると、自分にとっての「こんな珍しい本」や「こんなレアな音楽」は、その業界に詳しい人にとっては、「マイナーのなかのメジャー」でしかない、ということが多い。
 そこで、「ああ、自分も思っていたほど正規分布から外れてはいなかったんだな」と安心するのか、「自分は特別な人間でさえなかったのか」とがっかりするのかは人それぞれだ。たぶん、その両面があるのだろう。


 ディスプレイ越しにみていると、「自分は他人と違う、ということを証明しようとして、『自分は他人と違うとアピールしたがる人』がみんなやっているような『(自称)すごいこと』に突っ込んでしまう人」や、「自分自身をぶっ壊すような自作自演コンテンツをつくってしまう人」は少なくない。
 この人は、本当にこんなことがやりたいのか、それとも、他人と違うことを証明するために、やりたくもないことを自分にやらせているのか。
 悲しいことに、そういう「自爆系」ですら、もう、大概のことでは誰も驚かない。有名人だって、ガチでそういうことに突っ込んでくる世の中だし。
 いろんなものが可視化されるようになった世界というのは、それはそれで生きづらい。
 

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