いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「発達障害向けのオンラインサロン」が、「共感し、助け合える組織」であり続けるのは難しい。


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 僕自身も、ずっと「生きづらさ」を抱えてきましたし、発達障害的なところもあると思っています。それでも、年齢とともに、ようやく世の中に馴染んできた、という感覚も出てきたんですよね。
 今くらい、20歳のときに適応できていたら、人生もっと違ったものになっていたと思うのだけれど。
 それは「慣れ」もあるんですけど、いろんな予約や手続きが対人や電話ではなくてネットでできるようになったり、スケジュール管理も、いつも持ち歩いているスマートフォンにとにかく全部ぶち込むことにしたりできるようになった、というツールの進化が大きいのです。


 最近、発達障害、という概念はかなり一般に浸透してきていると思われるのですが、正直、「ちょっと空気が読めない人」も、みんな「発達障害」、みたいに認識されているような気もします。というか、もともと数値化されている診断基準があるわけではないので、診断する側の裁量がかなり大きいのです。


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 本書では、成人期の発達障害の代表的な疾患であるアスペルガー症候群などの「自閉症スペクトラム障害ASD)」、および「注意欠如多動性障害(ADHD)」を主に扱っている。この2つの病名は本書で繰り返しテーマとしているので、発達障害についての初学者の人においては、このASDADHDという2つの病名を記憶してほしい。
 この2種類の発達障害は、成人期における発達障害の大部分を占めているものであるが、両者はまったくの別物ではなく、複雑に関連している。ちなみに疾患の頻度については、一般の知名度とは異なり、ASDよりもADHDがはるかに高い。
 発達障害についての大きな問題の一つは、診断の不正確さである。これには過剰な診断と過小な診断と両方のケースがある。発達障害とは言えない人や他の精神疾患に罹患している人が、発達障害と診断されていることは珍しいことではない。
 このような過剰診断の中でもっとも頻度の高いものは、「対人関係や社会性の障害」がみられるために、アスペルガー症候群の診断を受けているケースである。けれども、対人関係についての問題は、発達障害に固有のものではない。統合失調症や対人恐怖症(社交不安障害)、あるいはうつ病など精神疾患においても、対人関係の障害は頻繁にみられるし、実は「健常者」においても珍しくはない。
 つまり、対人関係の障害という所見のみで発達障害という診断をすることは明らかに行き過ぎであり、「変わり者」や「風変わりな行動をとる人」を即「発達障害」と決めつける風潮には注意する必要がある。
 逆に、過小診断もしばしばみられる。うつ病等他の精神疾患と誤診されている場合や、発達障害の存在を見逃されまったく問題がないとされるケースも珍しくない。詳細については本文で述べるが、長期にわたり統合失調症うつ病などの診断で治療を受けているケースにおいて、ADHDなどの発達障害がベースに存在している例はまれではない。


 この新書を読んでいてもっとも感じたのは、「人間関係がうまくいかない」「空気が読めない」=「発達障害」と安易に「診断」することの危険性でした。
 その一方で、本来は発達障害の治療を受けるべき人が、別の診断名で治療されて続けていることも少なくないのです。


 何か自分の参考になれば、と「生きづらい人たち」が書いたものをけっこうたくさん読んできたのですが、正直なところ、同じような症状、悩みを抱えているからといって、それだけの理由で理解・共感しあう、というのは難しそうだなあ、と思うのです。
 癌やその他の難病のような、画像や検査データで診断できる病気よりも、同じ病名でも苦しみ方は違うし、情報共有しにくいところもありそうです。


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 確かに妻は家事が得意なタイプの女性ではない。なにをするにしても手際が悪いのはお義母さんからの遺伝で、お義母さんは食卓に盛りつけた揚げ物を出してから「あらお味噌汁がないわ」とか「ご飯がちょっと足りないから少し炊き足すわね」と言っては台所でバタバタやり出すタイプ(とはいえ圧倒的活動量があるので家事は結構完璧)。
 要するに物事に優先順位を付けるのが苦手で、妻の場合はこれに病的な注意欠陥が加わり、何か作業をしている間に他に目につく物があると、そちらに関心が移ってしまい、いつまでたっても当初の作業が完遂しない。
 たとえば食事ひとつ取っても、テレビで面白い番組があれば、その番組が終わってからようやく本格的に箸が動き出す。面倒を見ている庭の猫が来訪すれば、食事を放り出して餌やりに出てしまう。
 そんなこんなで、ヘタをすると一食に一時間以上、僕はと言えば、妻が食事を食べ終わらなければいつまでたっても食卓が片付かないし、次の食事を何時に作ればいいのかも決まらず、あああ、書いているだけで血圧が上がってきた。


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 発達障害者の厄介な点は、「一人一人症状や困りごとが違う」ということです。得意なこと、苦手なことがそれぞれ全く違うのです。「発達」の「障害」、すなわち「発達の凹凸が大きい人」なのだと思います。
 だから、「私は発達障害者です」と言われて「フォローしてあげたい」と思った人がいたとしても、どんなフォローをしてあげればいいのかはなかなかわからないという辛い現実があります。一人一人、発達の凹凸は別物ですから、必要なフォローも別物になってしまうのです。これが発達障害の難しいところです。
 僕はツイッター発達障害の話をしているうちに2万5000人を超えるフォロワーができて、多くの人と発達障害の話をする機会を得ました。また、この本を書くに当たって数十人の発達障害者にヒアリングを行いました。
 その中には、弁護士や企業役員といった成功者から、生活保護を受給して暮らす人、長い入院生活を送っている人など、さまざまなバリエーションがありました。
 そうした知見と自分自身の経験を踏まえて、「この辺は困ってる人が多い」という問題に対するライフハック(ささやかな人生の工夫みたいなものでしょうか)を書き連ねたのがこの本になります。
 この本の中心テーマは「生存」、すなわち「生きていればとりあえずOK。生き抜こう」です。社会適応のための努力ができるような状態ではない人もたくさんいますし、無理は禁物です。「社会に適応するためにこの本を読んで努力しろ!」というような内容の本ではありません。「あなたが少しでも楽に生きる役に立てばうれしい」という気持ちで書かれています。


 めんどくさい、空気が読めない、社会に適応できない人は「発達障害」と、かなり、ざっくりと「分類」されてしまいがちなのですが、同じ発達障害だから共感できる、赦しあえる、ってわけじゃないんですよね。
 僕自身も、医療の仕事をしていて、発達障害的な同僚と働いたこともあるのですが、最初は「僕もそういうところ、あるものな」って思えるのです。でも、忙しいときや危ない状況では、「頼むからちゃんとやってくれ!」ってイライラしてしまうんですよ。「同類」だから寛容になれるとはかぎらない。そもそも、発達障害や生きづらさを抱えている人の多くは、精神的に余裕がない、あるいは余力が少ない。ちょっとしたことで、イライラや落ち込みが沸点を超えてしまう。自分が誰かを苛立たせていることに気づいていても、自分がストレスを感じることには耐えられない。


 id:nenesan0102さんも書いておられますが、「生きづらい人たちが、お互いに共感をベースに助け合っていくのは、かなり難しい」のではないかと思うのです。

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「山奥ニート」だからなんでもあり、何もしないでゴロゴロしていればいい、というわけではなくて、当番が決められているわけではないものの、月に何度か食事の準備をすることや食後の片付け、地域の人々に協力すること、1ヶ月あたり18000円の電気代、食費などを含む共益費を支払う、というルールに従うことが求められてもいるのです。
 「働けない人」が山奥でニートとして生活している、というよりは、「都会で通勤ラッシュに耐えながら毎日職場に行く、という働き方に不向きな人」の中に、山奥でのゆるやかな共同生活には向いている人がいる、というだけのことのようにも感じました。

 この山奥に集まった人たちを一言でまとめて表すのは難しい。
 福祉を受けるほど、働けないわけじゃない。
 会社員になるほど、働けない。
 自分で起業するほど、積極的じゃない。
 自分で死ぬほど、消極的じゃない。
 そんな中途半端な僕たちには、どこにも居場所がなかった。
 ニートという名前の面白いところは、それが「〇〇な人」を表しているのではなく、「〇〇じゃない人」を表しているところだ。
 Not in Education, Employment or Training.
 学生じゃなく、会社員じゃなく、職業訓練生じゃない人。
 こうしたどの集合にも含まれない人は、補足が難しい。はっきり、こういう人、と言い表すことができないからだ。
 ホームレスや重い障害を持つ人たちを支援する場所はたくさんある。まだまだ足りないけれど、そういう活動をする人たちを知っている。
 会社員に対しては国から手厚い保護がある。年金や健康保険、ありとあらゆる面でサラリーマンは有利だ。
 でも、僕らみたいな「じゃない人」は、何重にもある網目からもこぼれ落ちてしまう。
 国はニートという言葉ではなく、若年無業者という言葉を使う。
 僕らはほんの少しだけど収入があるから、無業者かと言われると違う気がする。
 でも、しんどさはあるんだ。
 できる人と、できない人の間には、できるけど疲れる人がいるんだ。
 必要があれば働くけど、ずっと働きたいわけじゃない。
 こういう中間の人は、今の社会では不利な立場だ。


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 僕は働きたくなかった。
 ただただ働きたくなかった。
 理由はよくわからない。
 大学時代、アルバイトをしてみたこともあった。学費や家賃は親が払ってくれていたし、ブランド物が好きだったわけでもなく、飲み会や旅行にもあまり行かなかったので、出費が多かったわけでもない。料理が好きだったから自炊が多かったし、友達と遊ぶ時も自宅に集まることが多かった。外食もファミレスや牛丼屋で十分おいしいと思えた。休日は家にこもってずっと寝ているが、公園に行ってボーっとしたり友達とキャッチボールをして遊んだりしていた。だから、そんなにお金のかかる学生ではなかったように思う。仕送りもあったので、まったく必要には迫られていなかったのだけれど、ただ、周りの友人はみんなアルバイトをしていて、アルバイトをせずに親の脛をかじっているのはクズだみたいな空気に耐えられなくなって始めてみた。
 でも、ネットカフェ1日、居酒屋3か月、プールの監視員2か月、レストラン半年、喫茶店半年とどれも続かなかった。
 別に人間関係が悪かったとかブラックバイトだったとかいうわけじゃない。働いている間ずっとスイッチを入れ続けている、あの感じが本当に無理だった。
「ちゃんとしていなきゃいけない」
 あの感じがすごく疲れてしまう。バイト先に行った瞬間、本当の自分を捨ててちゃんとした自分を演じるのが辛かった。社員さんが目を合わせてくれなかったり、コップを少し強く置いたりするだけで、自分が何かしてしまったんじゃないかと考えてしまう、あの感じが大嫌いだった。


 結局のところ、発達障害者や生きづらい人たちが集まると、そのなかでまた階層というか、ランキングみたいなものができあがってきて、政治力があったり、お金を稼ぐ技術があったりする人たちが、「助け合い、共感しあうはずの集団」のなかでリーダーシップをとり、パートナーも見つけて、(世間的な)幸せを得て、適応できない人を排除したり、自分はその集団を離脱したりしていくのではないか、ということなんですよ。
 「山奥ニート」にしても、「しょぼい喫茶店」にしても、あまりにも社会性に欠ける参加者や客は「排除」されていくのです。
 そりゃ、現実的にはそうなるよね、喫茶店なら、閉店後にずっと店に残って、店員の女性に1時間も話しかけ続けるなんていうのは、「迷惑」でしかない。
 でも、そういう迷惑行為をやらずにはいられないのが、彼らの「生きづらさ」でもあるわけです。
 それは理解できても、受けいれる、それにずっと付き合ってあげるのは無理なのです。
 いくら発達障害者が集まっても、そのサロンはユートピアにはならない。
 むしろ、「俺はアイツよりマシ」みたいなマウントの取り合いによる地獄絵図が繰り広げられるのではなかろうか。
 

 基本的に、すべての状況の人たちをまとめてサポートするなんてことは不可能です。
 そして、これまでの僕の経験上、余裕がない人間が大勢集まって、なんらかの「運動」を行っても、最悪の事態を脱してしまえば、お互いの利害が衝突し、分裂していくだけなんですよね。

 現実的には、余裕がない人、弱い人は、余裕がある人、強い人に助けてもらったほうが、状況を改善しやすい。
 でも、「余裕がない人」たちは、「余裕がある人」を、どうしても敵視しがちです。僕もそうだったし、今もそうなりがちです。

 「自助」だけではなくて、「他者に、余裕がある人に、行政に上手く助けてもらうこと」も考えていったほうが良いと思うんですよ。
 「余裕がある人」=「悪人」ってことは全然なくて、余裕があるからこそ、誰かを助けてあげたい、っていう人は、少なからずいるから。


fujipon.hatenablog.com
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「山奥ニート」やってます。

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しょぼい喫茶店の本

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蠅の王 (角川ホラー文庫)

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