ひとことで言ってしまうと、「子どもを生む理由なんてない」のですよね、たしかに。
それは、別に「この時代」「この国」に限ったことじゃなくて。
太平洋戦争中のように「産めよ増やせよ」という社会的な圧力が強かったり、宗教的な理由で避妊が許されなかったり、そもそも、避妊の方法が浸透しておらず、「子どもができて、産むのが当たり前」だったり、という時代から、「生まない選択」ができるようになったのは、人類にとっての大きな変化ではないかと思います。
「自分という個人が、まず幸せになるべきだ」という考え方(「個人主義」としておきますね)が一般的になると(あるいは「家」とか「世継ぎ」みたいな概念が消失すると)、子どもなんて、いないほうが「自分の人生」を自由に使える、と考える人が増えるのは、自然な流れではあるのです。
この本のなかで、著者は、「出生、死亡、移住に着目してヒトの歴史を見直すと、四つのフェーズに大別できる」としています。
第一フェーズは、アフリカで石器を改良して生活していた時期。
第二フェーズは、ヒトの祖先がアフリカ大陸から西アジア、そして地球上の広い地域に移住した時期。
第三フェーズは、ヒトが定住生活をはじめ、農耕と家畜の飼育を発明した時期(旧大陸では1万年以上前、新大陸では6000~7000年くらい前)。
第四フェーズは、産業革命と人口転換の時期。
この「人口転換」とは、「出生率も死亡率も高い『多産多死』から、死亡率だけが低下する「多産少死」を経て、最終的に出生率も低下する「少産少子」に移行すること」を指すそうです。
日本では、この「人口転換」が1880年頃にはじまり、1950年代に終わっています。
第四フェーズのもう一つの大きな特徴は、人口の認識に変化が生じはじめたことです。「世界人口」という認識が高まるとともに、地球環境や資源の持続性にとって人口が過剰と考えられはじめたのです。そのため、出生率の低下を目指す家族計画が推進されてきました。とはいえ、世界人口は現在でも一年間に7000人のペースで増加を続けているのです。人口増加に起因する環境問題、食糧問題、南北問題などは深刻の度を深めています。一方で、人口転換が終了し「少産少死」に移行した多くの国では、低い出生率がつづき人口減少がはじまっているのです。
「世界人口」というのを人類が意識しはじめたのは、人口が急激に増えたこの数百年くらいのことなんですね。そもそも、人類が「世界」というものをこれだけ認識するようになったのも、つい最近のことですし。
日本では「少子高齢化」がずっと大きな問題となっており、大勢の移民を受け入れる、などの大きな政策転換がなければ、人口はどんどん減少することが確実です。まあ、移民してきてください、と言っても、そう簡単に来てくれるかどうかもわかりませんが。
日本に住んでいると「人口過剰問題」というのは過去のことのように感じられるのですが、この本で紹介されている各種のデータによると、欧米のいわゆる「先進国」の人口は頭打ちになっている一方で、アフリカではまだまだ人口は増加傾向にあり、人口のピークは、120億人くらいになると予測されているようです。
でも、逆にいえば、120億人くらいの時点で、世界人口の増加は落ち着く、とも考えられているんですね。
人間が経済的にある程度満たされ、子育てへのコストを意識しだすと、「少子化」というのは避けられないようです。
この新書では、2015年、中国の「一人っ子政策」がついに撤廃され(というか、まだやっていたのか、という感じなのですが)、「二人目まではOK」になったものの、豊かになって、子どもの教育を重視するようになった中国の人々は、教育費も考え、積極的に子どもの数を増やそうとはしなくなった、という話が出てきます。
政府は産児制限を解除すれば、およそ1100万世帯から2人目が生みたいとの申請があるだろうと予測していました。ところが、フタを開けてみたら申請したのは80万世帯にとどまりました。
やはり豊かになると、子どもは多くはいらない。教育費もかかります。気づいたら中国でもすっかり「子どもは1人でいい」という状況になっていました。一人っ子政策撤廃も、もはや手遅れの感があります。
いくら「少子化対策」を叫んでみても、現実的に、いまの個人主義の世の中で「国のために」「日本のために」子どもを生むという人は、ほとんどいないはずです。
僕自身の感覚としては、「生まれてみれば子どもはかわいい、というか、この子をこの世界から失いたくはない」。
でも、生まれる前には、自分が親になる自信はなかったし(今でも親であることにあまり自信はありませんが)、いないならいなくても良いなあ、と思っていました。
子どもがいる生活は面白いのだけれど、子どものことを巡っての夫婦での諍いや、子どもに苛立つことだってありますしね。
子どもがいなければ、自由に使えるお金は増えるし、休みの日にも好きなことができる。
その一方で、「そこまでしてやりたいこと」なんて、40代半ばの男の人生には無いような気もします。
生きがい、みたいなものというか「自分を励ますためのネタ」になってもらっているのも事実なんですよね。
歴史的にみると、「いまのこの国は、人類の歴史上けっこう珍しい、子どもを生むかどうか選べる状況」にあるのです。
もちろん、義父母からの無言の圧力、みたいなものはあるのだとしても。
少なくとも、事務的な手続きをマメにやることができたり、プライドを捨てる覚悟があれば、子どもは「飢え死に」しないということになっています。
そういうのが、難しい人には難しい、のだけどさ。
それでも子どもが増えないのは、結局のところ、人間が生きられる時間は有限であり、次世代(子ども)のために時間やお金を費やすよりも、自分自身のために使ったほうがいい、と考えることが許される時代になったから、だと思うのです。
それは、けっして間違った考えではないし、僕は、そうやって、人類はゆるやかに滅亡していくのではないか、とも想像しています。
ひとりの人間に寿命があるように、人類という種にだって寿命はあるのでしょう。
ただ、最近のさまざまな世の中の動きや科学的な知見を考えると、「高齢者介護の問題」については、「延命治療の縮小」や「進化した介護用のロボットの導入」「働ける人は働くようにする」などで、高齢化に「適応」していくとは思うんですよ。
今の科学、医療の水準で、30年後を想像する必要はないのです。
むしろ、今は、「古い家族制度」「親は子どもが面倒をみるべきだ、という価値観」と現代的な合理主義が衝突している時期だからこそ、苦しいのかもしれません。
口から食べられなくなったら「寿命」、介護が必要な高齢者は集約的な施設に入ってもらって、ロボット介護士が効率的にお世話をする、ということになれば、かなり人手もコストも減らせるはずです。
そういうのが「正しい」かどうかはさておき、そうならざるをえないんじゃないかな。
「人間的なふれあいを!」って言う人もいるかもしれないけれど、それも、ロボットが代用してくれる。
人間は、そんなに「他人」が好きな人ばかりじゃない。
これを読むと、アンドロイド相手のほうが、気を遣わずに喋れることもあるようです。
身も蓋もない話を書いてきましたが、僕は生みたい人は生んだほうがいいと思うし、生みたくない人に積極的に生むことを進める理由も必要もないと考えています。
ただし、悩んでいて、そのチャンスがあるのなら、生まないよりも、生んでみるほうが、後悔はしないような気がします。
気がする、だけなんですけどね。
個人的には、子どもがいて良かったことって、「この子は自分よりも長生きして、自分には見られない未来を見てくれるんだな」と死ぬのが少し怖くなくなることと、自分が死んだあとの世界に対して、少しだけ希望を持てること、家に帰ってきたときに「おかえりー!」って子どもが胸に飛び込んできたときの重さを感じられることくらいなんですよ。
マイナス面も、たくさんあります。
でもね、年を取って思うのは、人間って、個人主義を貫いて生きるのは、案外キツいんじゃないか、ってことなんですよ。
「自分の幸せ」って突き詰めればキリがないから。
たぶん、人生っていうのは、めんどくさいことに手を出さないと退屈で長過ぎるんだよね。
少なくとも、僕にとってはそうなんだと思う。
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