いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「自分が死ねば世界は終わりだ」ということに気づいてしまった人たち


saavedra.hatenablog.com


 この『おんな城主 直虎』の感想と「高天神崩れ」の話が面白かったのです。
saavedra.hatenablog.com


 これを読んで、「それでは、武田勝頼高天神城を救援に向かうべきだったのか?」とあらためて考えていました。
 当時の情勢や織田・徳川連合軍との戦力差からすると、救援に向かってもうまくいかない可能性が高く、戦争続きで厳しかった財政をさらに悪化させるだけなので、「見捨てるのは合理的な判断」なんですよね。
 でも、人の心というのは「合理的だから納得できる」というものではない。
 降伏を受け入れずに城兵を殲滅した織田・徳川方のほうが、「ひどいことをしている」わけですが、だからといって、「武田は味方を助けてくれない」というイメージの浸透のほうが、結果的には歴史に大きな影響を与えたことになります。
 まあ、もっと長い目でみれば、そういう「勝つためには手段を選ばず」という信長の姿勢が、本能寺の変の遠因となった、とも言えるのでしょうけど。

 
 『300』という映画があるんですよ。
 僕はこの映画のもとになった、ペルシア戦争でのテルモピュライの戦いを高校時代に世界史資料集で読んで以来、ずっと忘れられないのです。


テルモピュライの戦い - Wikipedia

内容(「Oricon」データベースより)
伝説的な史実「テルモピュライの戦い」を基に、侵略を目論むペルシア軍の大軍100万人に、たった300人の兵士で立ち向かったスパルタ軍の男たちの勇姿を描いた衝撃の歴史スペクタクル。「シン・シティ」のフランク・ミラー原作・製作総指揮、主演は「オペラ座の怪人」のジェラルド・バトラー。特典ディスク付きの2枚組。R-15指定作品。


 『300』のほうは、もちろんフィクション満載なわけですが(というか、ギリシア戦争がどんなものだったのかなんて、正確なところはわからないのだろうけど)、いくら隘路を利用して大軍と戦いやすい状況をつくったとしても、300対100万で勝てるわけもなく、スパルタ王レオニダスと彼の兵たちは、スパルタの名誉を守るために「玉砕するための戦い」に身を投じるのです。
 たしかに、ここで少しでも時間稼ぎをすることには、戦術的な意義はあるのかもしれませんが……


 レオニダス以下300人のスパルタ軍は、激闘の末に戦死するのですが、この映画の最後、ペルシアとの決戦を前にして、ギリシア側の指揮官は、テルモピュライで100万人のペルシア軍と戦った300人の「英雄」たちの話をして、部隊の士気を高めるのです。


 テルモピュライで戦死した300人は、無謀な戦いをして、犬死にしたのか?


 その戦いだけで評価をするならば、間違いなく、「無謀であり、人的資源の浪費」だったと言えるでしょう。
 でも、彼らの戦いは「物語」あるいは「伝説」になって、彼らの子孫を励ました、とも言える。


 太平洋戦争の日本軍の「特攻」についても、きわめて非人道的で、その犠牲のわりに、戦果も少ない作戦だった、とは思うのです。
 ただ、それが無意味だったのか、と問われると、「日本人(日本軍)というのは、自分の命を捨てて、敵を道連れにするような恐ろしいやつらだ」というイメージを植えつけたという点で、アメリカ側の戦意を低下させる効果はあったのかもしれません。
 そういう形で、「なめられないようにする」というのが、正しいのかどうかはさておき。


 なんのかんの言いつつ、これまでの人間は、先人がつくった「物語」や「伝説」に影響されてきたし、「自分自身は死んでも、その後に何か遺るものがある」と信じてきたのではないかと思うのです。


 しかしながら、いまの世界、とくに日本では、人は死ねばコンセントが抜かれた家電のようになる、と多くの人が認識しているでしょうし、家名を受け継ぐ、であるとか、墓を守ってもらう、というような意識を抱えている人は、若い世代にはほとんどいないでしょう。
 いま、40代半ばの僕も、特定の宗教への信仰は持たない(持てない)し、死ねば、少なくとも自分が認識できる世界は終わりだと考えています。
 そして、自分がわからなくなった後の世界というのは「実在」すると言えるのだろうか、と半信半疑でもある。


 僕は、今のような世の中が続くかぎり、日本では少子化が劇的に改善することはないと思うんですよ。
 いくら、対策にお金を積んだとしても(とは言うものの、ひとり産んだら1億円、とかなら変わるかもしれない)。
 だって、百年前の人たちは、今の日本人よりもずっと物質的には貧しかったのに、もっと子供を生んでいたのだから。
 「結婚しなければ一人前ではない」「子供を育てるのが当然」という社会からのプレッシャーが少なくなり、世の中に、育児よりも手軽で安価でリスクが少ない娯楽がたくさんあり、自分が死ねば世界は終わりだ、ということに気づいてしまった人たちにとって、子どもを生み育てるというのは、「人生の最適解」ではないことが多いのではなかろうか。


 自分が死ねば世界は終わりなのだから、子供を育てるのは割に合わない、と思うか、自分は死んでしまうのだから、せめて、子供を世界に遺しておきたい、と考えるか。
 子供を育てることそのものが喜びだという人も多いし、むしろ、育児のおかげで、人生が暇すぎて困ることから解放されるケースもあるのかもしれないけれど。
 もちろん、望まぬ妊娠・出産もあれば、子供がほしくても、なんらかの理由で難しいこともある。


 人間が変わった、というよりは、社会が変化したことによって、人間の潜在的な欲求が顕在化しただけなのではなかろうか。
 ネットとか政治世界では「日本の未来を支えるために、子供を増やそう!』と言う人が大勢いるけれど、個々のカップルで、「日本のために子供をつくろう、産もう」なんて考えている人がいるのだろうか? 戦時中ではあるまいし。
 自分が絶対に実行しない「正しさ」をアピールしている人たちは、その空虚さを自覚できないのか?
 

 「物語」や「伝説」の効果が薄れてしまった時代、自分の命や楽しさこそが大事で、死ねば終わり、と考えるしかなくなった時代というのは、生きている個人にとっては、たぶん、昔より幸せなのだと思う。
 家を繋げることからのプレッシャーは緩和されたし、自分を犠牲にすることを強要される機会も昔よりは少なくなった。
 ただ、それはそれで、「死ぬこと」への不安はかえって増したような気もするし、人類全体にとっては、「緩やかな退潮」が避けられなくなっていると思う。
 人類は、これまでの歴史上ではじめて、自らの意思で少しずつ減っていき、滅ぶ生物になるのかもしれない。


 ……なんなんだこの着地点は。


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サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

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