いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「普通に接すること」の難しさについて

cyberglass.hatenablog.com


このエントリを読んで、「ああ、『かわいそうな被災者像』みたいなのを押し付けてしまっているところはあるのだよなあ」と、考えさせられました。
この中にあるように、その地域のなかにも、さまざまな立場の人がいるし、いつまでも「かわいそうねえ」という目でみられ、「同情」されることに不快感を抱く人がいるというのもわかる。


ただ、このエントリの最後のところを読んで、僕はなんだかものすごく考え込んでしまったのです。

当時者性は個人の心に委ねるけれど、普通に福島と接してほしい。そう強く思う。


いやほんとうにその通りだと思う。
その一方で、この「普通に接する」ということは、ものすごく難しいことではなかろうか。
僕も、「普通に」という言葉をよく使ってしまうのだけれど、これほどあいまいな言葉というのも、あまり無いような気がするのです。
そもそも、人によって、その「普通」の範疇は違うわけだし。


なんか揚げ足を取っているようにしか自分でも思えなくて大変申し訳ないのだけれど、そういう意図ではなくて、誰かに「普通に接する」ということについて考えると、ものすごく悩ましいのです。


文脈に対する僕の読解としては、この「普通に」は、「震災や原発事故が起こる前の、日本のひとつの地域でしかなかった福島に対しての態度と同じように接してほしい」なんですよ。
うん、いつまでも「かわいそうなフクシマ」って言われ続けるのは、たまらないだろうな、と。
日常に回帰したいのもわかる。


ただ、現実的に、僕が福島の人に「震災や原発事故が起こる前と同じ感情で接する」ことは、とても難しいだろうな、と思うのです。
なぜなら、それはもう起こってしまったことで、僕が知ってしまったことだから。


昔、夜、どうしても眠れないときに、「無心」になったら眠れるのではないかと思いつき、それを実行してみようとしたことがありました。
僕が実際に行ったのは、布団のなかで、「むしん〜むしん〜むしん〜」とお経のように唱えたり、「頭の中を空っぽにするんだ!と自分に言い聞かせたりすること」だったのです。
そんなの、全然「無心」じゃないよね。
まあ、そんなことをしたって、眠れません。
その後、「眠りたいときには、顔の筋肉の力を抜けばいいんだ」とある人に教えてもらったのですが、こちらのほうが実用的なようです。


僕は、震災前の福島について、会津藩と水族館くらいしか知りませんでした。
正直、とくに興味もなかったし、好きでも嫌いでもなかった。
のんびりとした良いところなんじゃないかな、というくらいの、漠然としたイメージしかなかった。
そんな僕が、いま、そこに住む人々と「震災前と同じように接する」ためには、記憶喪失にでもなるしかないのではなかろうか。
突き詰めて考えれば、「震災のことを知りながら、震災前と同じように振る舞う」というのは、「普通」というより、「不自然」なのではないかと思う。
そこには「震災のことには触れないようにしよう、相手を傷つけないようにしよう」という、「フクシマへの過剰な感情移入」とは違う、バイアスがかかることになってしまう。
「知らない」のと、「知っていることを、知らないことにする」のは、同じではない。


「普通に接する」には、どうしたら良いのだろう?とずっと考えていて、あるエピソードを思い出しました。


以前、中谷美紀さんの演技についての、こんな話を読んだことがあります。
『ないものねだり』(中谷美紀著・幻冬舎文庫)の巻末の黒沢清さんによる「解説」の一部です。

 今でも強烈に印象に残っている撮影現場の光景がある。中谷さんに、沼の上に突き出た桟橋をふらふらと歩いていき、突端まで行き着いてついにそれ以上進めなくなるという場面を演じてもらったときのことだ。これは、一見別にどうってことのない芝居に思える。正直私も簡単なことだろうとタカをくくっていた。だから中谷さんに「桟橋の先まで行って立ち止まってください」としか指示していない。中谷さんは「はい、わかりました。少し練習させてください」と言い、何度か桟橋を往復していたようだった。最初、ただ足場の安全性を確かめているのだろうくらいに思って気にも留めなかったのだが、そうではなかった。見ると、中谷さんはスタート位置から突端までの歩数を何度も往復して正確に測っている。私はこの時点でもまだ、それが何の目的なのかわからなかった。


 そしていよいよ撮影が開始され、よーいスタートとなり、中谷さんは桟橋を歩き始めた。徐々に突端に近づき、その端まで行ったとき、私もスタッフたちも一瞬「あっ!」と声を上げそうになった。と言うのは、彼女の身体がぐらりと傾き、本当に水に落ちてしまうのではないかと見えたからだ。しかし彼女はぎりぎりのところで踏みとどまって、まさに呆然と立ちすくんだのだ。もちろん私は一発でOKを出した。要するに彼女は、あらかじめこのぎりぎりのところで足を踏み外す寸前の歩数を正確に測っていたのだった。「なんて精密なんだ……」私は舌を巻いた。と同時に、この精密さがあったからこそ、彼女の芝居はまったく計算したようなところがなく、徹底して自然なのである。


 つまりこれは脚本に書かれた「桟橋の先まで行って、それ以上進めなくなる」という一行を完全に表現した結果だったのだ。どういうことかと言うと、この一行には実は伏せられた重要なポイントがある。なぜその女はそれ以上進めなくなるのか、という点だ。別に難しい抽象的な理由や心理的な原因があったわけではない。彼女は物理的に「行けなく」なったのだ。「行かない」ことを選んだのではなく「行けなく」なった。どうしてか? それ以上行ったら水に落ちてしまうから。現実には十分あり得るシチュエーションで、別に難しくも何ともないと思うかもしれないが、これを演技でやるとなると細心の注意が必要となる。先まで行って適当に立ち止まるのとは全然違い、落ちそうになって踏みとどまり立ち尽くすという動きによってのみそれは表現可能なのであって、そのためには桟橋の突端ぎりぎりまでの歩数を正確に把握しておかねばならないのだった。


 と偉そうなことを書いたが、中谷美紀が目の前でこれを実践してくれるまで私は気づかなかった。彼女は知っていたのだ。映画の中では全てのできごとは自然でなければならず、カメラの前で何ひとつゴマかしがきかないということを。そして、演技としての自然さは、徹底した計算によってのみ達成されるということを。ところで、このことは中谷さんの文章にもそのまま当てはまるのではないだろうか。


「演技としての自然さは、徹底した計算によってのみ達成される」
「知ってしまった」僕は、「知らなかったときと同じように接する」ことは、できないのだと思う。
となると、「普通に接する」ためには、「普通にみえるように、綿密な計算をする」しかないのかもしれない。


故郷に関するネガティブな言説って、自分の親の悪口と同じで、「自虐として言うのは『あり』でも、他人から言われると無性に腹が立つし、許せなくなる」ものだし、などと考えはじめると、外部の人間が「普通に接する」というのは、ものすごく難しいのではなかろうか。
そんなに身構えないで、「場所」のことは考えず、ひとりの人間対人間として話せばいいよ、ということなのかな……
でもさ、普段は、誰かとコミュニケーションするときに「ひとりの人間対人間として」なんて、意識しないですよね。それはやはり「普通」とは言えないのでは?


なんというか、どこに着地していいかわからなくなってしまっているのですが、「普通」って、実はものすごく大変なことなのだ、というのが僕の実感です。
他者との関係において、「普通に」やろうとすることによって、かえっていろんなものをこじらせてしまうことも多いのだよなあ。



ないものねだり (幻冬舎文庫)

ないものねだり (幻冬舎文庫)

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