いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「行かないで」の記憶

 昨日は、東日本大震災から4年目の、3月11日でした。


 夜のニュースの特集で、19歳の女性が4年前に体験したことを語っていました。
 彼女は津波にしばらく流されたあと、偶然陸に打ち上げられました。
 人の声がするので辺りを見回してみると、近くでお母さんが大きな瓦礫に挟まれていたそうです。
 身体中はねじ曲がり、いろんなものが刺さっているという、変わり果てた姿で。
 彼女は、なんとか瓦礫をどかそうとしてみましたが、女性ひとりの力では、全く動きそうにない。
 助けを呼べるような状況でもない。


 彼女は、やむをえずひとりで逃げるという選択をしたのです。
 その場に、お母さんを残して。


 その場を去ろうとした彼女に、お母さんは言いました。
「行かないで」と。
 彼女は、その声をふりほどくように泳ぎ、避難所に辿り着いた。

 
 誰が悪いわけでもない。
 もし彼女がお母さんの「行かないで」の声に躊躇していたら、一緒に命を落としていたかもしれません。
 いや、たぶんそうなっていたでしょう。
 おそらく、お母さんは、もう助からない状況だったはずです。


 共倒れになるくらいなら、自分だけでも助かったほうがいい。
 彼女は、きっと、「正しい選択」をした。


 にもかかわらず、彼女は、「お母さんを見捨てた」ということを背負って生きていかなければならないのです。


 それは仕方のないことなのだ、とみんな言うだろうし、僕もそう思う。
 彼女だけでも助かってよかった。


 そして、同じような状況で、諦めることができずに、運命を共にした人だっていたはずです。
 それを間違いだと、責めることもできない。

 
 この番組を観ながら、なぜ、お母さんは、「あなたは行きなさい」と言えなかったのか、という思いが、頭をかすめました。
 そしてそのあと、自分の傲慢さが、つくづくイヤになったのです。


 もし自分だったら、そう言えるのか?


 人間の、普段の「覚悟」なんて、脆いものです。
 僕たちは、ドラマやマンガの主人公じゃない。
 その場にひとりで取り残されて死んでいくのは、怖いに決まっている。
 当時15歳の彼女の親といえば、ちょうどいまの僕と同じくらいの年齢だったのではないかと思います。
 いざというときに、自己犠牲の精神を発揮できる人間なんて、ごく一握りです。
 お母さんは、あの津波が来るまでは、侍でもハリウッド映画の主役でもなく、ごく普通に生きている人だったのだから、「突然かつ理不尽に、自分の人生が終わってしまうこと」を受け入れられないのが当然です。


 彼女が行ってしまったあと、お母さんだって、「行かないで」と言ってしまったことを、後悔しているかもしれない。


 あの未曾有の災害のなかでは、自分が生き延びるだけで精一杯だったはず。
 にもかかわらず、人は、「自分が生き残ってしまったこと」に罪の意識を感じることもある。

 
 ナチスユダヤ人収容所での体験を描いた歴史的な名著、ヴィクトール・E・フランクルさんの『夜と霧』に、こんな言葉があります。


「すなわち最もよき人々は帰ってこなかった」


 そんなことはないはずだ、と、当事者ではなかった僕は思う。
 これは、生き残った人々の「自責」の言葉でもあるから。
 でも、その思いを消し去ることは、できないのでしょう。


 あれから4年が経ったけれども、あの震災は、まだ終わってはいない。
 それを記憶している人がいるかぎり、終わることはない。
 それでも、残された者たちは、生きていく。


 
参考リンク:【読書感想】記者たちは海に向かった(琥珀色の戯言)
【読書感想】記者たちは海に向かった - 琥珀色の戯言


アクセスカウンター