いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

自分の苛立ちを振りかざす、ということ

もう20年くらい前の、恥ずかしい話を書きます。

 

d.hatena.ne.jp

 

 

当時の僕は、パチンコにものすごくハマっていて、休日には、一日中ホールに座っていることもありました。

そして、その日はものすごく調子が悪く、お金をどんどん突っ込んでも、全然当たらない。

そういうときは、一度席を立って、外の空気を吸うと、急に冷静になって、これまで使ったお金が怖くなることが多いのですが、その日はひたすらアツくなっていて、どんどんどんどんお金を突っ込み続けていたのです。

 

このくらい投資したんだから、もう当たらないとおかしいだろ……

実際は、パチンコの抽選は1回転ごとに行われており、それが1回転目であろうが、1000回外れたあとの1001回目であろうが、当たる確率は同じ。

……と頭ではわかっていても、「この台が当たるまでは帰れない」という強迫観念めいたものに囚われてしまうことって、あるんですよね。後で考えると、本当にバカバカしいし、怖いのだけれど。

 

その日はお昼くらいからずっと打っていて、片手くらいは、1万円札を失っていました。

さんざんハマった末、単発(パチンコというのは、大当たりの中でも、運がよければ何回も続けて当たるという「連チャン」のシステムがあるのです)が、ようやく1回。

当時は、単発当たりだと持ち玉で打てず、一度交換しなければならない、というルールの店がかなりあったのです。

いまは交換時1玉=4円の「等価交換」の店がかなり多いのだけれど、当時は1玉=2.5円とか3円のほうが多くて、現金で打つよりも、持ち玉で打つほうが、プレイヤーにとっては「お得」でした。

 

大負けにイライラし、店員さんに対して露骨に目を逸らしながら、特殊景品というやつを景品交換所に持っていきました。

ああ、なんでこんなに出ないんだよ、このクソ店!

なんかイカサマでもやってるんじゃないのか!

 

……競馬とかでも、そう言いたくなることは少なくないのですが、おそらく、大部分の店はイカサマはやっていないと思います。

そんなことをやらなくても、確率は適度に分散するし、店は儲かるから。

競馬でも「何これ!」と言いたくなるレースはたくさんあるのだけれど(このあいだの宝塚記念ゴールドシップの大出遅れとか)、主催者とすれば、むしろ、揉め事を避けたい、お客の信頼を損ねたくない、はず。

だって、人気通りでも大波乱でも、主催者の懐に入ってくるお金に変わりないのだから。

むしろ、「何か不正が行われているのでは?」と疑われるほうが、売り上げの減少のリスクにつながる。

 

……そんな理屈は、頭ではわかっていたのです。

でも、その日の僕は、やたらと苛立っていました。

ああ、なんでこんなこと、やっちまったんだろうなあ……時間もお金もムダにして……

 

 

そして、ちょうと今のスマートフォンくらいの大きさの「特殊景品」を、窓口に、手荒く放り投げたのです。ああクソ、とか思いつつ。

 

そのとき、相手の顔が見えないようになっている景品交換所の向こうから、男の怒った声が響いてきました。

「コラ、お前なんじゃその態度は!」

 

パチンコ店というのは、「怖い人たち」との関連が取りざたされている場所。

中にいたのは「そういう人」だったのだろう、と思います。

 

 

「なんだとコラ、こっちは大負けして腹立ってるんだよボケ!」

……とか、言い返せるわけもなく。

そもそも、1枚とはいえ、この5000円を交換してもらえないと、今後の生活が、さらに苦しくなってしまう。

 

 

「すんません。すごく負けちゃって……ほんと、すいませんっ!」

 

「ああっ、チッ、これからは気をつけろよ、にいちゃん、ほら」

 

というわけで、なんとか事無きをえて、5000円札を1枚もらい、車に戻ってきました。

そして、ハンドルに突っ伏して、しばらく声をひそめて涙を流したのです。

とにかく、自分がみじめで、情けなくて。

 

 

パチンコで負けたことは自業自得であり、ギャンブルをやっていれば、負けることはある。

それは、悔しいし、困るけれど、仕方が無いことでもある。

イライラすることだってある。

 

でも、その日の僕は、負けたことでイライラしていただけではなく、その苛立ちを周囲に振りかざしていた。

そして、そのことを責められて、平謝りした。

 

 

なんだかね、すごく、情けなかったんですよ。

負けたことに、じゃなくて、自分が、ちょっと怖そうな人にたしなめられたくらいで、ちょっとした金額を失いことが怖くなったくらいで、すぐに縮こまって、謝ってしまう程度の覚悟で、苛立ちを露わにしてしまっていたことに。

 

あそこで、「うるさい!こっちは負けてイライラしてんだよ!黙って交換しやがれ!」と言い返せるくらいの度胸があれば、それも良かったかもしれない。

そこで、事務所に連れていかれて、ボコボコにされたとしても。

でも、僕には、そんな「覚悟」などサラサラなかった。

 

いや、皆まで言わなくてもいいよ、そこで喧嘩なんかしても、何の得にもならないのだから、謝って正解だったんだ。

僕だって、そう思ってはいる。

一歩間違えれば、危なかった。

相手がもっと喧嘩っ早い人だったら、もっと大きなトラブルになっていたかもしれない。

ただ、パチンコに負けただけなら、お金を失うだけで済むのです。

そりゃあ痛いけど、それは、僕がしばらくふりかけご飯で生活すれば良いだけのこと。

でも、苛立ちを振りかざすことによって、もっと致命的なダメージを受ける可能性を生んでしまった。

そもそも、どんなに苛立ちを露わにしても、お金は返ってこないのに。

 

 

なんでこんなどうでも良いような話を20年以上も覚えているかというと、これは僕にとって、ものすごく「苦い教訓」だから、なのです。

あの日、僕は「自分の苛立ち(しかも「ギャンブルで負ける」という自己責任極まりない原因での)を、飲み込んで平然とふるまえる人間ではない」ことと、「そうして苛立ちをふりかざした結果に責任をとる覚悟もない弱虫である」ことを、あらためて自覚せざるをえませんでした。

 

もちろん、その後も同じような間違いを繰り返してはいるのですが、苛立ちを感じるときには、このときのことを思い出すようにしています。

 

ギャンブルとかではなくて、家庭の問題とか、仕事上の悩みとか、もっと深刻で抜き差しならない事情があって、精神的に不安定になることって、誰にでもありますよね。

でも、そこで、「自分の苛立ちを振りかざす」というのは、何のメリットもなく、とても危険な行為なのです。

自分にとって大切な誰かを傷つけ、自分自身を損なってしまうことも少なくない。

「相手は、こちらの事情をわかってくれているはず」

そういう相手でも、我慢には限界があります。

逆の立場だったら……と想像すると、殴られれば痛いし、ひどいことを言われれば悔しいし、悲しい。どんな背景があったとしても。

 

生きていると、いろんな失敗って、あるじゃないですか。

自分のせいじゃなくても、ほんの一瞬だけの不注意が原因でも。

そういうときって、イライラするのが「自然」だと思う。

それでも、そんなイライラしている人に攻撃されたり、傷つけられたりした人が「あなたの事情を鑑みて、情状酌量してくれる」とは限らない。

人間にはステータス画面などないので、あなたの「内面」など、外からはわからない。

夫婦喧嘩でも、こちらからすれば「イライラしていたから、つい口にしてしまった」とか「売り言葉に買い言葉」のつもりでも、それが、致命的な一撃になってしまうことがある。

この年まで生きていて感じるのは、どんなトラブルでも、そのトラブルだけで致命傷になることって、ほとんどないんですよ。

むしろ、「そのトラブルがずっと気になっていて、仕事のミスを重ねた」とか「車の運転中に集中力を欠いた」とか、「配偶者に酷いことを言ってしまった」という「セカンドインパクト」のほうが、より深刻な被害をもたらしてしまう。

 

衝動を抑えることができないのが人間なのかもしれないけれど、そういうものに身を委ねそうになったときには「これによって、どんな結果になっても、受け入れる『覚悟』があるか?」と、一度、自分に問いかけてみてください。

 

本当に強い人は「負けない人」じゃなくて、「負けを受けいれられる人」「負けたからといって、自分を見失わない人」ではないか、と思うのです。

「負けてからのふるまい」が勝負の分かれ目なんだ。

 

 

以前、本でこんな話を読みました。

 

なぜ、ヨーロッパの上流階級の人々は、大金持ちなのにカジノでギャンブルをやるのか?

あれは、「綺麗に負けるトレーニング」なのだ。

 

 

 

我、いまだ木鶏ならず。

 

……と、偉そうに書いているのですが、僕もしょっちゅういろんなことに苛立っており、「せめて、少しでも二次災害を減らそう」と日々自分に言い聞かせています。

ネットっていうのは、とくに、そういう「自分の苛立ちを、周囲に振りかざしてしまいやすいツール」でもありますし。

 

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