いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

もしも、僕の人生でビアンカかフローラのどちらかを選ばなくてはならないのだとすれば。

昔読んだこんな話を、読み返す機会があって。


ユリイカ 詩と批評』(青土社)2009年4月号の「総特集・RPGの冒険」より。


(特集のなかの「鼎談・われらの道(RPG)はどこにある」の一部です。鼎談の参加者はブルボン小林さん、飯田和敏さん、米光一成さん)

米光一成物語とかを提示してみせるのではなく場としての世界を提出すること、つまり、今のゲームが何でもできるようなある種の「世界」を作るっていう方向に行っているのは、やっぱりゲームならではの語り口なのかもね。


ブルボン小林それで思い出したけど、知り合いのデザイナー……というか、『ユリイカ』の表紙を装丁している名久井さんだけど、彼女が『タクティクスオウガ』を最近また買って遊んでるらしいんだけど、あれってシナリオが「ロウ(law)」「カオス(chaos)」「ニュートラル(neutral)」って大きく三つに分岐していくんだって。名久井さんは以前に「カオス」で解いたことがあって、当時は他のシナリオは遊びきれなかったから、今回はどっぷりと「ロウ」か「ニュートラル」を選んで遊ぼうと思ったんだって。でもその分岐する場面の会話で「そのようなことは到底、肯んぜられない!!」っていう感じになっちゃって(笑)、結局また「カオス」の道を選んじゃったらしい(一同爆笑)。メモリーの中にある別のシナリオが見たくてやり直したはずなのに(笑)。「カオス」がいちばん熱血漢で「ロウ」は従順でその場に流される人の物語なんだって。その分岐点は仲間の裏切りみたいな場面でそれを見てみぬふりをしろ的な、なんかすごい提案をされるらしい。「あの村人たちをみんな焼き殺してそれを他人がやったことにして儲けはわれわれでもらおうぜ」くらいの。名久井さんは「はい」を選べなかった。二度目で今度は従順な「ロウ」の人のプレイをしようとしたのに、「そんな提案はのめん!」って(笑)。ゲームが多様なのに人間の気持ちが同じになるって、それがすごくおかしくてさ。


米光:それはある意味でそのキャラが他人じゃなくなってるってことだよね。でもその感情移入具合はいいな(笑)。


ブルボン:だよね。このエピソードひとつだけで『タクティクスオウガ』というゲームがすばらしいものなんだろうということがわかる。
 でも、そうして結局見ないままになってしまった『タクティクスオウガ』のソフトのなかのメモリーだって物語なわけだし、昔はやっぱりそういう風なメモリーの全部をみたかったはずなんだよね。だってスーパーファミコンのソフトって8900円とかしたんだもん。でも難しかったりして、『かまいたちの夜』とかでも「ピンクのしおり」とかを全部見るのは困難だった。でも今は難しかったゲームが攻略法がいっぱいネットに出てるじゃないですか。それで『かまいたちの夜』を全部解けるようになったわけだけど、でもそれでいざ見たらたいした筋書きでもないのよ。すでに遊んだ本筋のミステリーのところがやっぱりいちばんノリノリでさ。「メモリーを全部見られるようになったけど、それは別に楽しくなかったよ」って思ったな。だからゲーム内の選択肢として「はい/いいえ」を選ばさせられて、で結局「はい」を選ぶなんていうのはさ、なんかやらされてる感みたいなものも感じたりするんだけど、でも「いいえ」のあとに無数に世界は用意されてあってもさ、やっぱり「はい」を人間の側で選ぶかもしれない。


米光:『ゲーム化会議』でやっていていつも困るのが、「我慢する」って感じとか「仲間が死んだつらさ」みたいなものをゲームシステム的には表現できないってことなんだよ。「この人は恋愛狂で恋愛なしではいてもたってもいられない」っていうのはどうシステムで表現していいのかはわからない。プレイヤーがそう動いてくれないと困るんだけど、そうは動かない可能性ももちろんあるわけで。選択肢はあるけど、もはや「はい」を選ばない人間はいないだろうってところまで感情をわしづかみにできればいいんだけど。でもそれはシステムだけではやっぱりなかなか表現できなくて。


ブルボン:ある意味、やっぱり人間の側がさっきのデザイナーみたいな人であればいいわけだね(笑)。ゲームである以上、やっぱりある程度は人間にゆだねられるわけだし。


米光:結局はもっと冷めた人だと、「こっちをみたいから」っていうことで意に沿わない選択だってするわけだものね。


ブルボン:でも、『ドラクエ5』とかでも、たいていの人はビアンカと結婚したって聞くよ。ストーリー上の必然としてフローラは選べないよ、ということらしい。みんな人情があってさ(笑)、よっぽどの天邪鬼じゃないかぎりビアンカを選ぶらしいんですよね。


米光:それは実際にその本人に人情があるかとは別かもしれないけどね。人情がある世界という規範のなかで役を演じているのかも。


飯田和敏たしかに『ドラクエ5』ではビアンカと結婚する人も、私生活でどうかはわからない。物語だからこそ、ってところは勿論あるだろうし。


ブルボン:まあ単純化されてるわけだしね。いずれにせよ、中世とかファンタジーを舞台にしたものに限らず、RPGってとにかく、ゲーム内の他のジャンルと比べてもなんとなく血気盛んなほうに感情移入しやすい媒体なのかもしれないね。たしかに『スーパーマリオ』をやって「おのれクッパ!!」みたいな感じにはならないもんね。

 これを読んでいて、僕は名久井さんにものすごく共感してしまいました。
 みんなそんなに「爆笑」するなんて失礼な!
 『タクティクス・オウガ』は、僕も大好きなゲームなのですけど、僕も「カオス」でなんとかクリアしたあと、他のルートが気になりながらもあの大作を「選択」の場面からやり直す時間も気力もないまま、かなりの歳月が経ってしまいました。
 でも、もう一度やったとしても、たぶん僕も「カオス」を選んじゃうんじゃないかと思います。「他のルートを見てみるためにやってみた」としても、あの場面で「ロウ」に行くことができるだろうか?


 『ドラゴンクエスト5』も、スーパーファミコン、プレステ2、ニンテンドーDSと3機種でクリアしたのですが、全部ビアンカと結婚したものなあ。
 妻が、あっさりフローラと結婚してしまったのをみて、「それってひどくない?」と異議を申し立てたところ、「フローラのほうが呪文強いじゃん」と言い放たれたのは、けっこう衝撃的でした。
 いやまあ、それはたしかに、合理的なんだけどさ。
 ルドマンさんが「フローラと結婚しないと、アイテムあげないよ!」って言っていたらどうしただろう、とか考えてみたりもして。


 でも、ストーリーを進めていって、結婚前夜に「すやすやと眠っているフローラ」と「眠れずに窓の外を眺めつつ、『私のことは心配しないで。フローラさんを選んだほうがいいよ』と気遣ってくれるビアンカ」を目の前にすると、「ここは人間としてビアンカだろ!」という気持ちになってしまうのです。「フローラ(あるいはデボラ)を選ぶつもりだった人」でさえ、あの場でビアンカを捨てるのはなかなか難しいはず(だよね)。


 そういえば、堀井さんも、なにかのインタビューで「基本的にはビアンカを選ぶように作っている」と話していました。
 「8割くらいの人は、ビアンカを選んでいる」とも。
 たとえそれがデキレースであったとしても、「ただビアンカと結婚する」というのではなく、「いろんな意味で魅力的なフローラの誘惑を断ってビアンカを選ぶ」からこそ、プレイヤーの思い入れも強くなるのでしょう。

 たしかに、「人間としてビアンカを選ぶしかない!」とプレイヤーに思わせることができたとしたら、「作者の勝ち」ですよねこれは。


 『タクティクスオウガ』の「あの場面」にしても、『ドラゴンクエスト5』の「ビアンカとフローラ」にしても、もし同じことが現実に目の前で起こったら、「ロウ」に行く選択をしたり、フローラと結婚したりする人は、少なくともゲーム内での「選択率」よりははるかに高いのではないかと思います。
 だからこそ、ゲームのなかだけでも、「人間として正しい選択」をすることにこだわってしまう面もあるのかもしれませんね。


 もしかしたら、ネットでの人々のふるまいも同じなのかもしれません。
「なんでこんなに『正しさ』で異論を圧殺しようとするのか?」と考えてしまうのだけれども、実際は、「現実では『正しさ』を貫けない代償行為」みたいなものなのかな、と。
 そもそも、「絶対的な正義」なんて、フィクションの中にしか、存在しないものだし。
 それとは逆に、「どうせ自分が誰かなんてわからないんだから、日頃のストレスの捌け口にしてしまおう」という人も、たぶんいるのでしょうけど。


 僕は毎回、ビアンカを選ぶたびに、「もし僕が人生やり直せるとしても、結局同じことしかできないんだろうな……」と、自分の不器用さが悲しくなってしまいます。
 しかし、よくよく考えてみると、ビアンカとフローラのどちらかを自分で選べる人生って、すごく羨ましいものではありますね。
 というか、ゲームの中でくらい、そういうことで悩んでみたい、かもしれない。

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