いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

池上彰さんの「立場」について

参考リンク(1)最近ちょっと、池上彰さんのことが、わからなくなっている。


このエントリに対して、さまざまな反応をいただきました。

池上さんの場合は、あくまでも僕の印象として、特定の信条を持っているわけではなく、「いま、権力を持っている人」「勝ち馬に乗っている人」に対して、より厳しく追及していこう、というのはありそうなのですが、あんまり良くない言葉を使うと「自分の立場を明らかにせずに、つねに『質問する側』に立つというのは、ちょっとずるい処世術だよな」とも思うのです。

他人に対して「ずるい」なんて言葉を使うと、不快に感じる人が多いのだろうな、と反省しております。
これはもう、言い方が悪かった。すみませんでした。



参考リンク(2):池上彰氏に立場は必要ないですよ - (旧姓)タケルンバ卿日記
この参考リンク(2)のエントリなどは、反応のなかの代表的なものなので、賛同される方も多いようです。


ただ、率直に言うと「こういう考え方は、僕にとっては、もうすでに一度通り過ぎてきたもの」だったんですよね。
僕自身はジャーナリストでもないですし、それを専門的に学んできた人間でもありません。
でも、ジャーナリズムというものに興味はあって、それに関する本を読んだり、人の話を聞いたりして、それなりに勉強してきたつもりです。


参考リンク(3):【読書感想】「本当のこと」を伝えない日本の新聞(琥珀色の戯言)

 この本は『ニューヨーク・タイムズ』の東京支局長で、12年間も日本で取材を続けていたマーティン・ファクラーさんの著書です。
 著者が2011年1月に、ライブドアの堀江元社長などを採り上げながら、「日本の世代間格差」について記事を書いたところ、「記者はここまで自分の立場を明確にしないほうがいい」という批判のメールが届いたのだそうです。


 それに対して、著者はこのように「返答」しています。

 私は最初から、この記事を完全に客観的に書こうとは思っていない。「マーティン・ファクラー」という署名がはっきり入っており、私の目から見た日本を記事に書いていることは明らかだ。


 そのうえで、偏った感情的な表現にならないよう、冷静かつ平等に記事を書いている。この記事は、私が書いたもののなかではかなり極端な内容ではあるだろう。だが、さまざまな状況を吟味したうえで、公正だと判断したときには記者は自らの意見を強く述べてもいいと私は思っている。それは読者に「この記者はこうした主張・信念をもって日々の記事を書いている」という判断基準を与えることもなるからだ。


 その点、日本の新聞に「客観報道」という”神話”が息づいていることは不思議でならない。日本の新聞は言葉遣いや文法がきっちり決まっており、まるで同一人物が書いているかのような記事ばかりだ。自分の名前を出して記事を書く主筆や編集委員、論説委員など一部を除いて、記者が導き出した判断を前面に押し出す記事はほとんど掲載されない。


 公正な報道を実現するために、異なる立場の識者のコメントを両論併記するのは重要だ。だが、無理やりバランスを取ろうとする必要はない。取材を重ねたうえで右、左どちらかの結論に至ったのであれば、記者の署名入りで堂々と記事を書けばいい。いくら新聞が「客観報道」を追究したところで、究極的には報道とは主観の産物でしかないのだ。

 言われてみればもっともな話で、「報道とは主観の産物」なんですよね。
 何を記事として載せるか、それを1面に載せるか、隅っこのほうに小さく載せるかという選択そのものが「主観」によって行われているわけですし。


参考リンク(2)で、id:takerunbaさんは、こう書かれています。

 あとは日本のニュース番組におけるキャスターの特性。何故か色をつけたがる。キャスターの政治信条なんて本来どうでもよくて、キャスターの色眼鏡付きの報道がベースな日本のニュースってどうよと思うわけですが、そのような日本式キャスター像を求めるのであれば、池上彰氏が確かに妙だが、欧米式アンカーマンスタイルなら特に疑問がない。自分の政治信条関係なく、視聴者が疑問に思っているであろうことを聞く。これに尽きるし、現にこれをやっているわけで。

 池上彰氏がやっていることは、自分の立場を出すことなく、ただひたすら聞く。質問する。その質問内容は、視聴者が疑問に思っていることを端的に、ストレートに。そしてひとつ質問を単独で終わらせず、連続でかぶせていく。質問Aの回答Aには質問Bを。「はい」「いいえ」のふたつの答え方があるなら、その追質問を分岐させる。両方をきちんと準備しておく。


 僕はやっぱり腑に落ちないのです。
池上彰さんに、立場は必要ない」という気持ちはわかる。「客観報道」というのは、そうであるべきなのでしょう。
 でも、「立場のない人間」なんて、存在するのだろうか?
 本当に「客観的な報道」なんて、可能なのだろうか?
 「日本の報道は偏っている」と言う人は多いけれども、僕がいろいろ勉強してきたかぎりでは、「海外の報道だって偏っている」のです。
 アメリカのFOXニュースなんて、「正気か?」と思うような偏りっぷりです。
 ただ、海外のジャーナリストの場合は、「自分の立場」をあるていど鮮明にしてます。


 彼らは、人間がやることなのだから、真の「客観報道」なんてありえない、と思っています。
 受け手も、それを理解している。
 だからこそ、次善の策として、「視聴者がそのジャーナリストの『立場』も含めて解釈できるように、自分のスタンスを明らかにしている」のです。


 僕も以前は「客観報道こそ正義」だと信じていました。
 でも、実際に報道に従事している人の話を聞けば聞くほど「客観報道」のように見えるものにこそ、より一層の注意が必要なのではないか、と思うようになりました。


 繰り返しますが、僕は池上さんが「悪意の人」だとはまったく思っていません。
 池上さんほど「黒子」であろうとしているジャーナリストは、日本にはほとんどいないでしょう、たぶん。
 視聴者の「盲点」に留意している数少ない人でもあります。


でもまあ、このタイミング(というか、昨年末)で、こういう本を上梓されているというのは、少なくとも「無色透明」ではないですよ(池上さんはコメントなどで少し参加されているだけで、小泉さんとの対談もなければ、小泉さんのコメントもない本ですが)。

池上彰が読む小泉元首相の「原発ゼロ」宣言

池上彰が読む小泉元首相の「原発ゼロ」宣言



もうひとつ言っておくと、池上さんの本質は「ジャーナリスト」ではないのかもしれない、と僕は考えているのです。


参考リンク(4):【読書感想】学校では教えない「社会人のための現代史」(琥珀色の戯言)


 池上さんには、こんな著書もあります。
 この本のいちばんの魅力は、世界の現代史を取材し続けてきた池上さんが、「現代人の目からの俯瞰」だけではなく、「当時の人たちの見かた」を、きちんといまの若者たちに紹介していることだと思うのです。


 この本の記述より。

 ベトナム軍のカンボジア侵攻は、世界を驚かせました。


 ベトナム戦争カンボジア内戦当時、ベトナム共産党カンボジア共産党は、協力していたはずなのに、戦争になってしまったからです。


 当時、日本を含め世界の社会主義者たちは、「社会主義国同士は戦争しない」と信じていました。それが裏切られたのです。その後、中国がベトナムに侵攻し、さらに期待は裏切られるのですが。


 ベトナムによるカンボジア侵攻は、論議を巻き起こしました。ベトナム軍が侵攻しなければ、カンボジア国民の犠牲はさらに増え続けていたことでしょう。ベトナム軍が、これを阻止したことは明らかです。


 その一方で、カンボジアへの侵攻は、明らかに侵略行為です。


「他国の人々を救うため」と称して侵略することが認められるのか、という論議です。


 つまりは、「人道的介入は認められるのか」との問題になります。


 その後、東西冷戦が終わり、旧ユーゴスラビアが解体する中で始まった内戦では、ヨーロッパの北大西洋条約機構NATO)軍が介入し、セルビアを攻撃しています。これも「人道的介入」として論議を呼びましたが、セルビアによって犠牲を出していたボスニア・ヘルツェゴビナの住民を助けたことは事実です。


 これにより、「ある国の中で反人道的行為が広範囲に行われている場合、国際社会は人道的介入が許される」という理論として結実します。


 こうした国際社会の難問を喚起することになったのは、カンボジアが端緒でした。


また、こんな著書もあります(というか、東工大で、こんな講義もされています)。
参考リンク(5):【読書感想】この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」



 ある写真には、こんなコメントがつけられていました。

 2004年8月、米軍ヘリが宜野湾市沖縄国際大学に墜落、炎上した。夏休みで犠牲者がなかったとはいえ、アテネ五輪プロ野球ドラフト問題に比べ、ニュースの扱いは小さかった。

 この短いコメントのなかに「メディア側の人間」としての池上さんの苦々しい思いが込められているように僕は感じるのです。


 池上さんは、日本の政治報道が「政策」よりも「政局」中心であることに苦言を呈しておられます。
『聞かないマスコミ 答えない政治家』より。


聞かないマスコミ 答えない政治家

聞かないマスコミ 答えない政治家

 たとえば民主党の野田内閣時代、野田首相が消費税の増税方針を打ち出したのに対して、小沢一郎氏を中心とするグループは、これに反対して党を飛び出しました。このとき、テレビも新聞も、小沢氏はいつ行動を起こすのか、何人がついていくのか、等々は詳しく報じましたが、「なぜ消費税増税に反対するのか」という肝心の理由が漠然としていました。


 政治家の動きを取材するのは楽です。もちろん政治家が雲隠れしたりして、取材それ自体がむずかしいこともありますが、こうした政治家たちの動きははっきりしていますから、「誰それがどこのレストランに集合した」などと報じていれば、なんだか政治取材をしているような気になります。


 ところが実際には、これは単なる政治家動向報道です。どのような政策が日本にとっていいことなのかは、こんな報道からでは見えてきません。


 消費税増税になぜ反対するのか、きちんと質問するべきだったのです。消費税増税マニフェストに書いていなかった、という理由で反対しているのか。別にマニフェストに書いていないことだって、政策として打ち出すことはあるはずです。


 消費税増税に賛成すると、次の選挙で不利になるからなのでしょうか。明らかに、このタイプの議員たちが多かったのですが、結局テレビも新聞も、これについて政策論として追及することはありませんでした。


 だから日本のメディアは……と思考停止してしまいがちだけれど、結局のところ、そういうメディアのほうが高視聴率だったり、雑誌が売れたりしたのは、誰のせいなのか?


 日頃偉そうにしている政治家が困っていたり、批判されていたりする姿をみて、快哉を叫ぶところで終わってしまっていたのではないか?
 池上さんが聞こうとして、相手がまともに答えようとしなかったこと(政策)を、番組を見終えたあとでGoogleででも調べようとした人が、どのくらいいるのか?
 この本の本当のタイトルって、『聞かないマスコミ 答えない政治家 学ばない国民』だったのかもしれません。
 

 僕は、池上彰さんって、本質的には「ジャーナリスト」ではなくて、「歴史家」なのではないか、と思うんですよ。
「いい質問をしてくれるジャーナリスト」がいないから、その役割を兼ねているだけで、もっと長いスパンでの「人間の営み」みたいなものを追究していきたい、みんなに伝えたい人なのではないかと。


『この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」』のなかに、こんな言葉があります。

 振り返ってみると、戦争直後の日本は、全国が東日本大震災直後”のようなものだったのです。それがここまで発展を遂げました。適切な経済対策と、国民の努力があったからです。


 それだけの経験を有する日本のこと、これからの日本も、再び不死鳥のように発展することは可能なのです。それを考えるためにも、歴史を学ぶ必要があるのです。

 池上さんは、無色透明な人なんかじゃありません。
 本当は「言いたいこと」が、たくさんあるのだと思うし、言葉や文章の端々から、それは溢れそうになり、あるいは溢れ出してしまっています。
 いまは、自分の役割として、「いい質問をする人」を選挙特番では演じていますけど。


 池上さんは、「みんなもっと長期的な視野で歴史に学んでほしい」、そして、「学ぶことによって、世の中で起こっていることを、自分自身で判断できるようになってほしい」と願っているのではないでしょうか。


 いやほんと、他の人のことをあれこれ勝手に類推して書くことに、何の意義があるのか?という話ではあるのですけど、池上さんの一ファンとして、どうしても書いておきたくなったので、ご容赦ください。
 間違っているところもたくさんあるかもしれませんが、「中立」とか「客観」というのは、そんなに簡単な話じゃないんですよ。

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