いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「それでも、僕やあなたは、騙される」のです。

ネット上で、「嘘を書くな」という言葉を見かけるたびに「そうだよなあ」と思います。
検証するのが至難な状況で、見知らぬ人を騙すというのは、本当にタチが悪い。
それに対して、ネット上で、いや、人生で見かけるほとんどのトピックに対して、「釣り判定」をしようとしている自分がいる。
この人は、ネット上では「女性」になっているけど、「ネカマ」じゃないか?
この「体験談」は、2ちゃんねるの定番じゃないのか?
これ、「ステマ」じゃないの?


神ならぬ身としては「100%正確な釣り判定」なんてできませんし、何でも「嘘じゃないか?」と疑い続けてしまうと、ずっと引きこもったまま死を迎え「どうだ!僕は一度も騙されなかったぞ!」という遺言を残して死ぬ、みたいな人生になるんじゃないか、とか怖くもなるのです。


嘘はよくない。
人を騙すのはよくない。
そんなことは、幼稚園児でもわかっている。


しかしながら、僕は知っています。
少なくとも、僕が生きているあいだに「誰も嘘をつかない社会」なんていうのが来るはずがないことを。


いくら、ネット上で善良な人々が、「嘘をつくな」と声を上げ、目立つものに対して、「釣り判定」をしていても、嘘をつく人はつく。
そういう善良な人々のエントリを読むのもまた、善良な人々なので、「お金を払って映画館で観ているにもかかわらず、毎回『映画泥棒』を見せられてモヤモヤする観客」みたいな状況になるわけです。
悪いやつらには届かず、ルールを守っている人ばかりに「啓蒙」の言葉が届く。


僕だって、騙されたくはない。
ネット上でも、実生活でも。
ただ、「嘘なんて無くなってほしい」と思う一方で、「嘘が全く無い、クリーンな社会」という無菌室が万が一できたとしたら、そこに一滴の「嘘」が混じったとき、感染の広がりが食い止められなくなるのではないだろうか?なんて危惧してみたりもするのです。


もちろん、「無菌」のほうがいい。
それがずっと完璧であるのならば。
でも、「無菌」に慣れすぎると、常在菌に接触したり、毒性の弱い菌に感染することで得られるはずだった「抵抗力」がつかず、もし外部からなんらかの菌が侵入してきた場合に、致命的なダメージを受けるリスクが高くなる。


嘘をつく人を、いくら吊るし上げても、たぶん、嘘つきを絶滅させることはできない。
いやむしろ、「嘘つきがいないように見える世界」を、本物の嘘つきは、待っているのかもしれない。
そこにいるのは、嘘に耐性が無い、騙しやすい人たちばかりだろうから。


車の運転で、「何度かぶつけることによって、車幅感覚が体感できるようになる」って言うじゃないですか。
嘘に対する人の付き合い方もそんな感じで、騙された経験がないと、いざというときに「本当に危険な状況」が予見できなくなってしまう。
ただ、「だからといって、わざと何でも信じて、騙されればいいよ」ってわけにもいかないんですよね。
車の運転だって、「初心者のときに未熟さゆえに起こした事故」は、大部分の人にとっては「その後の成長の肥やし」になります。
でも、その「未熟さゆえに起こした事故」で、一生を棒に振ってしまうことだってある。
人生とドラクエの最大の違いは、城の周りでもドラゴンに遭遇してしまう可能性があることです。
ザオリクも使えない。
普通に生きていれば、イヤでも「一度や二度は転ぶ」ことになっているのだけれど。
それが致命的なものになるかどうかというのは、ある種の用心深さと「運」の掛け算でしかない。



村上春樹さんが、小説(物語)の役目について、こんなことを書かれています。

 我々はみんなこうして日々を生きながら、自分がもっともよく理解され、自分がものごとをもっともよく理解できる場所を探し続けているのではないだろうか、という気がすることがよくあります。どこかにきっとそういう場所があるはずだと思って。でもそういう場所って、ほとんどの人にとって、実際に探し当てることはむずかしい、というか不可能なのかもしれません。


 だからこそ僕らは、自分の心の中に、あるいは想像力や観念の中に、そのような「特別な場所」を見いだしたり、創りあげたりすることになります。小説の役目のひとつは、読者にそのような場所を示し、あるいは提供することにあります。それは「物語」というかたちをとって、古代からずっと続けられてきた作業であり、僕も小説家の端くれとして、その伝統を引き継いでいるだけのことです。あなたがもしそのような「僕の場所」を気に入ってくれたとしたら、僕はとても嬉しいです。


 しかしそのような作業は、あなたも指摘されているように、ある場所にはけっこう危険な可能性を含んでいます。その「特別な場所」の入り口を熱心に求めるあまり、間違った人々によって、間違った場所に導かれてしまうおそれがあるからです。たとえば、オウム真理教に入信して、命じられるままに、犯罪行為を犯してしまった人々のように。どうすればそのような危険を避けることができるか?僕に言えるのは、良質な物語をたくさん読んで下さい、ということです。良質な物語は、間違った物語を見分ける能力を育てます。


 僕はたぶん「嘘つきがいる世界」で生きていかざるをえない。
 そして、僕自身も、誰かにとっての「嘘つき」になってしまう可能性が十分にあります。
 何かをやろうと思ったら、結局のところ、何かを「信じるしかない」場面というのは出てきます。


 ネットっていうのは、そういう意味では、素晴らしいトレーニングセンターではあります。
 ここには嘘も真実も入り混じっていて、「説明」してくれる人もいる。
 いわゆる「リテラシー」みたいなものを磨くためには、とにかく、いろんな話に触れてみるしかない。
 そして、騙されてしまうことによって、得られるものも、たぶんある。
 

 「それでも、僕やあなたは、騙される」のです。
 だからこそ、騙されたときに、なるべくダメージが少ないような「受け身のとりかた」を考えておくべきなのでしょう。
 目についた嘘つきを責めるのは、けっこう快感なんだけど、人がいちばん無防備なのは「自分が攻めていると思っているとき」だったりもするしね。
 
 

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