いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「ポンコツのほうが、やりやすいです」

参考リンク(1):正しすぎて辛い(はてな匿名ダイアリー)


これを読んで、いろいろと考えるところがあって。
このエントリのブックマークコメントを読むと、ああ、ネットで愚痴なんかこぼすもんじゃないな、とは思いますよね本当に。


あの、実はですね。僕も5年前にこんなエントリを書いていたんですよ。
参考リンク(2):「正しいこと」の牢獄(琥珀色の戯言)
まあ、若気の至りといえばその通りではありますし、いま読むと、かなり恥ずかしい。


いま、40歳も過ぎてしまって、子どもがひとりいて、という状況で、「正しすぎて辛い」を読んで感じるのは、「ああ、こういうのってつらいよね。でも、たぶん夫の側も『正義超人』じゃないんだろうな」ということなんですよ。
そしてたぶん、夫としては「追い詰めている」なんて思ってはいない。


僕にも似たような経験がありまして、で、思い切って言ってみたんですよ。
「そんなふうに正論で追い詰められるのはつらい」って。
で、妻の側の返事は「えっ?そんなふうに思っていたの? 全然気づかなかった」でした。
そして、「あなただって、私をずっと『正論』で責めていた」とも。
いやほんと、10年を軽く超える付き合いなのですが、口に出してみないとわかんないことってあるんですよね。
逆に、近い関係だと「言わなくてもわかってるんだろ?」「なんで察してくれないんだ?」なんて考えてしまい、「これはもうダメだ……別れるしかないのか……」みたいに、どんどん疑心暗鬼確率変動モードに突入していくのですが、なんのことはない、相手も同じだった、と。
「君はデキる人間だから」と言うと、「私はあなたほど頭が良くないと思っていた」
まあ、それで全面的に問題が解決するわけでもなく、とくに子どもが絡んでくると「じゃあ出て行く!」ってわけにもいかなくなるので(「子はかすがい」とはよく言ったものです)、波はありつつも、それなりに生活をしているわけです。
すっごく幸せ!なことばかりじゃないし、いろいろプラスマイナスもあるけれど、相撲で言えば、9勝6敗でなんとか勝ち越し、そんな感じ。


僕はこの人に、この本を読んでみてもらいたいのです。とくに、乙武さんの奥様の話を。
参考リンク(3):【読書感想】自分を愛する力(琥珀色の戯言)
僕はこの年齢になってようやく少しわかってきたのですけど、夫婦や家族で「正しさ比べ」をしても、しょうがないんですよね。
「お互いに向上していく関係が理想」なんていうけど、それは、そういうのに向いた人たちがやればいいことです。
「正しいことを言っている、やっているように見える人」っていうのは、逆に「正しくしなければならないという強迫観念みたいなものに追われている」ことが多い。
乙武さんの奥様が求めていたものは「自分よりすぐれた人」「自分と同じような人」ではなくて、「自分に足りないものを持っている人」だった。
まあ、こういうのって、あんまりひどくなると「共依存」なんて言われたりもしますけど。


この夫が求めているのは「妻がもっと正しい、デキる人間になること」じゃなくて、(たぶん職場では言えないのであろう)「自分の『正論』を聞いて、肯定してほしい」もっとひらたく言ってしまうと「若いのには説教も怖くてできないから、俺の愚痴を聞いてよ」なんじゃないかと。
それで、「じゃあしょうがないな」って、子どもを迎えに行ったりすることで、自分の夫として、父親としての役割を再確認し、「うんうん、俺はこの家族に必要だよな」って納得しているのです。
まあ、迷惑といえば迷惑ですが、夫の側は「うちの妻はけっこう立派な人間だ」と思っていて、家庭に自分の居場所があるか不安になっていたりするものですよ。


とりあえず、一度「そんなふうに正論ばかり言われているとつらい」って吐き出してみるといいんじゃないかな。
夫は、たぶんわかっていないから。自分が妻を苦しめていることを。


言ってしまったあとは、「正しさ比べ」じゃなくて、お互いに自分のできること、できないことを補っていけば良いと思う。
「正論を述べさせてあげることによって、相手を救っている」場合だってあるのだから、「そうね、あなたはすごい!」っていうフリをして聞き流してしまうのも、ひとつの「助け合い」だし、「役割分担」でもあるわけで。
もちろん、あまりにも耐えられない役を押しつけられたら、どうしようもないところはあるのだとしても。


別に、これ以上正しくならなくったっていいんですよ。
「正しさ比べ」を突き詰めると、正しさの高尾山のつぎに、正しさの富士山が見え、正しさのエベレストを目指してしまう。
そんなの99.99%の人は、どこかで遭難するに決まっています。


競争するんじゃなくて、お互いにサポートしあうほうが、はるかに生きやすくなると思うんです。
それにはまず、「自分はそんなに正しくはなれない」ことを素直に受け入れるしかない。
それは全然、恥ずかしいことじゃないから。


先日、ナインティナインの矢部さんの結婚式で、矢部さんと岡村さんがサッカーボールを蹴りながら話をしていました。
いままで「責任者」として、すべて自分が背負って、仕切っていた岡村さん。
でも、病気によって、その多くを他の人に任せなければならなくなった岡村さんは、こう言いながら、ボールを蹴りました。


「ポンコツになってしまって、ごめんなさい」


矢部さんは、ちょっとはにかみながら、こんなふうに答えて、ボールを蹴り返したのです。


「ポンコツのほうが、やりやすいです」



本当に大切な人は「ちょっとポンコツ」くらいで、ちょうど良いのかもしれません。
重いものを一人で背負っている人がいて、それをただ観ているだけというのは、けっこうつらい。
助けるのも助けられるのも、やってみればけっこう楽しいんだよ、たぶん。
あなたは、「正しくなる」必要なんてありません。
むしろ、「もっとポンコツ」で、良いんじゃないかな。

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