いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

ブログが「適切な広まり」で読まれるのは難しい

参考リンク:人の情報をサルベージすることは、当事者に炎上に似た恐怖を与える - lovelycharmyの日記

 

 

この話について、いくつか。

僕はあのエントリが失われてしまったことがとても残念だ。

以前にも、「妊娠が難しいと言われていた妻に子供ができた時の話」とか、「福島にとって原発は必要だと思っていたという告白」に、多くの人が食いつき、そして、跡形もなくなるまで引きちぎって去っていったのを覚えている。

心ない人たちが、自己満足のために「個人情報曝し」をしたのは悲しいことだ。

この人は、言いようのない悲しみをようやく言葉にして、それを自分のなかだけでは抱えきれなくて、海に手紙を入れたボトルを流すような気持ちで、ネットに公開したのだと思う。

 

しかし、あれをブックマークした人間のひとりとしては、「ネットに公開してしまったからには、それを煮たり焼いたり、『それでも結婚できるだけマシだろ、オレなんか非モテだからな!』とか、言い出す人が出てくるのも予想の範疇ではないのか?」とも思う。

そして、「良い話」だからこそ、「個人情報曝し」を善意ではじめる人が出てくるというのもわかる。実名書いてあったしね。

人は「良い話」をするときには、かえって遠慮しないものだ。

「いいじゃん、だって、こんなに『いい話』なんだし、誰が書いたかわかっても困らないよ」

 

悩ましいのは、「では、あの文章に対して、『適切な広まり』というのは、どのくらいだったのだろうか?」ということだ。

ネットのなかには、同じような想いをつづっていても、誰にもブックマークされることもなく、埋もれてしまった文章が少なからず存在するはず。

その人たちは、「ああ、ほとんど誰も読んでくれなかったな……」と寂しい気持ちになったのではないだろうか?

逆に、今回のように「想定していたよりも、はるかに読まれてしまい、『向こうは知っているのに、自分は全く知らない人』からのアプローチがたくさん来る」となると、それはそれで怖くなるのも当然だろう。

もともと、プライベートな内容だったのだし。

 

困ったことに、ネット上に浮かんでいる文章の大部分は、書いている人にとって、「適切な広まりかた」をしてはくれない。

大部分は「無反応」で虚しくなるのだが、一度火がつくと、「過剰反応」に困惑することになる。

なかなか火がつかないか、大火事か。

暖炉でパチパチと暖かい音を立てているような「適切な火力」には、なかなかなってくれない。

 

「誰にも読まれたくなくて」ブログを書く人はほとんどいないはず。

そして、「炎上したい」人もいない。

 

結局のところ、他人の反応をコントロールすることなんて、不可能なのだ。

だから、「適切に他人に読んでもらうこと」を期待してブログをはじめると、ほとんどの人は失望する。

 

それなら、twitterで、「どんどん流れていく、軽いつながり」を感じていたほうがラクだよね。

もっとも、twitterなりの「適切なつながり」を維持するのも、それはそれで大変ではある。

 

まあ、どんなエントリでも、1か月もすれば、誰も見向きもしなくなることだけは、事実なんだけどさ。

 

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