いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「ブログに本の感想を書いてみたい」という人へ


anond.hatelabo.jp



けっこう長い間、読書感想ブログをやっているので、何かアドバイス的なことを言えないかな、と考えてみたのだけれど、あまり役に立つような話はできそうにありません。

ただ、いくつか気づいたことを書いておきます。

基本的には、この増田さんの感想で十分じゃないかと思うし、「ポジティブな感想を書こう」なんて、自分の感情をコントロールしながら出てきた言葉は、たぶん、あまり面白くないのです。
そもそも、ブログで創作物への感想を書く最大のメリットは、利害関係を抜きにして好きに語れる、ということなんですよね。
僕は小心者なので、お金をもらっていたり、出版社や著者と利害関係があれば、やっぱりそんなにひどいことは書けないと思うから。
「褒めたくなければ、褒めなくていい」というのは、個人ブログの特権です。
新聞とか雑誌の書評コーナーで「酷評」を載せるのは難しいだろし。


本の感想なんて、基本的にはそんなに大勢の人に読まれるものではないので、よほどのことがないと「炎上」することはありません。
ただし、何をどう書いても不快に感じる人がいるのは事実です。
誰にだって、作品の完成度とかは抜きにして、苦手なテーマというのもあるわけで。


fujipon.hatenadiary.com



うーん、これですよね(本じゃなくて映画の感想だけど)。
いまだったら、もうちょっとうまく、あんまり荒れないように書けたのではないか、とも思うし、でも、こういうのを僕自身の「背景」みたいなものを取り除いて「純粋に評価」しようとすると、たぶん、個人ブログでの「感想」って、ものすごく薄っぺらい、評論家気取りのものになってしまうような気もするんですよね。
いや、人間って、すべてのことに対してフラットには向き合えない。
たとえば、親が不倫していて、そのおかげで傷ついた子どもは「不倫について書かれた小説」をどうしても受けつけない、ということはありうるでしょう。
そこで、自分の背景を押し殺して「公正に」評価するべきなのか、そんなことができるのか?
僕は、そういう「公正さ」ほどイビツなものはないと思うし、そういうことをやる必要はないと考えています。
まあ、できればその「背景に対する説明」を加えておいたほうが、炎上のリスクは減る、あるいはひどく燃えないとは思いますが、そういうのって、「他人に言えない」ことも多いしなあ。
その場合は「書いたけど、お蔵入りにする」ほうが良いかもしれませんね。


長年ブログで本の感想を書いてきて痛感しているのは、どんなに僕があれこれ考えて書いたものでも、柴咲コウさんの「泣きながら一気に読みました」の足元にも及ばない、ということなのです。


書く側は、「感想や書評の内容が読まれているはず」だと思いこんでいるのですが、実際は、本の感想とか書評って、きわめて属人的なもので、「書いている人のこと」に興味があって読まれているのではないかと感じることが多いのです。


ブログを書いている一般人としては、まず「この人は、こういう本が好きで、こういう本が苦手なんだな」というのが伝わるように、とにかく、「何も反応がなくても、感想の記事を積み重ねていく」ことがいちばん大事なのではないか、と思うんですよ。


書き始めって、けっこう肩に力が入ってしまって、「評論」をやろうと思いがちなのですが、そうすると、なんだかあまり良いものにならないみたいです。
「良い、悪い」よりも「好き、嫌い」で語るほうが、ラクだし、実感が伝わります。
「その作品の作者の他作との比較やジャンルのなかでの位置づけ」なんていうのは、プロの書評家にかなうものではないし、書評というのは、かなりニッチなジャンルなんですよね。
読まれて批判されることを心配するのは、ある程度読まれるようになってからでも十分間に合います。
よっぽどヘンな言いがかりじゃなければ、ね。


本の感想や書評を書いている人のなかで、「この人がオススメしているから読んでみる、買う」なんて影響力を行使できる人は、ほとんどいません。
でも、100人の人がそれぞれ自分の感性にしたがって「好き、嫌い」を書いていけば、全体の傾向みたいなものは見えてきます。
あるいは、「この人は自分と感覚が近いから、この人に乗ってみよう」ということもありえるでしょう。
感想を書くときに僕がいちばん考えているのは、「ある作品を多くの人に知ってもらうための1000の感想のなかの1になれればいい」ということなんですよ。
僕が書いたものそのものが直接目に見えて役に立つことはなくても、出汁をとるためのカツオブシの1枚として少しでも美味しさにつながってくれれば、と思うのです。
面白い本であれば、多くの人に読んでほしい。書いた人が報われてほしいし、読んでみて「よかった」と感じる人がひとりでもいてくれたら、すごく嬉しい。
あまりネットの読書感想サイトでは採りあげないのではないか、という本も、意識的に採りあげています。
逆に「流行もの」も好きなんですけどね。


増田さんは「さすがにこれブログを書くわけには……」と仰っていますが、このくらいの分量やスタンスのほうが読みやすい、という人は少なくないと思います(長い感想というのは、それだけで敬遠されることもあるのです)。
ブログで書いてきて思うのは、自分の頭であれこれ想定するよりも、実際にみんなに公開してみて得られるフィードバックを参考にするほうが、はるかに有効で、手っ取り早いということなのです。
人の目にさらされると(あるいは、さらされている、と意識すると)、変わるべきものは変わっていきます。
長く続けていこうとするならば、あまり強く意識しなくても、少しずつポジティブ寄りになっていく可能性が高いのではなかろうか。


あと、感想を書くことによって、「その本の良いところ、面白いところ」を自分から探せるようになってくる、というのもあるんですよね。
あっ、この比喩面白いな、とか、自分を変えようとして入れ墨いれちゃう人もいるんだ、とか。
読み流していた部分やディテールにこそ「面白さ」が潜んでいることも多いのです。


百田尚樹さんというのは、毀誉褒貶が激しい作家なのですが、『愛国論』という本のなかで、田原総一郎さんとこんな話をされています。

田原:これは小説家・百田さんの、放送作家またはテレビ制作者的なところだろうと思うけど、『永遠の0』は場面が次から次へと展開し、見せ場や山をつくって飽きさせない。とても用意周到につくり込んでいる印象を受けました。ちょっとつくり過ぎでは、と思った部分もあったくらいなんだ。


百田:わかります。私は、小説は基本的にエンターテインメントだと考えている小説家です。言論人やジャーナリストならば、主張したいところを論文で書けばいい。でも、小説家は、読者のアタマに訴えるよりも、心に訴えることのほうが大事だ、と思うんです。もちろんアタマに訴えることも必要ですけれども。

 評論家なんかはよく「この小説にはテーマがない」と、いったりします。たとえば「戦争は絶対にダメである」というテーマが重要だ、とかね。そんな意見を聞くと私は、だったら原稿用紙を500枚も600枚も埋めていく必要なんかない。「戦争はダメだ」と1行書けば済むじゃないか、思います。


田原:うん、そりゃそうだ。


百田:小説が論文と違うのは、そこです。「戦争はダメだ」「愛が大切だ」「生きるとは、どれほどすばらしいか」なんて1行で書けば済むことを、なぜ500枚、600枚かけて書くのか。それは心に訴えるために書くんです。「戦争はダメ」なんて誰だってわかる。死者300万人と聞けばアタマでわかるし、悲惨な写真1枚見たってわかる。けれども、それはアタマや身体のほんとに深いところには入らない。そんな思いがあって、『永遠の0』という小説を書いたんです。


小説の「骨組み」みたいなものは、実際はそんなにバリエーションの多いものではなくて、「それをどうやってうまく相手の『腑に落ちる』ようにするか」なんですよね。
どんな素晴らしいテーマでも、そのままスローガンみたいに主張されたら、多くの人は素直には受け入れにくい。
だからこそ、まわりくどく、ディテールを積み重ねていく必要があるのです。
そういう意味では、「ディテールこそが、小説である」のかもしれませんね。
僕も、そういうふうに思えるまでけっこう長い時間がかかって、「テーマが描き切れていない」なんてよく悪口を書いていたんですけど。


個人的に、本の感想をネットで書いていていちばん良かったのは、本の読み方が、少し能動的になったことなのです。
Amazonアフィリエイトで全然売れなくても、ステマだと罵られても、作者からTwitterでブロックされても、本の感想を書くのはけっこう楽しい。


おまけとして書いておきますが、「あまりポジティブなことが思い浮かばない」場合には、その本のなかで自分がいちばん好きだった一文を引用して、それについて少し書く、とか、気にいったキャラクターのセリフをひとつ書く、というのはひとつの方法だと思います。
それだけでも、長い目でみると、けっこう面白いコンテンツになりますよ。
「ちゃんと書こう」としすぎて身動きがとれなくなることって、ありがちなので。


ニッポンの書評 (光文社新書)

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水曜日は狐の書評 ―日刊ゲンダイ匿名コラム (ちくま文庫)

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