いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

苦労してるのを努力してると思ってる人(ブログ編)

azanaerunawano5to4.hatenablog.com


ここで、id:paradisecircus69さんが言及されているのは、(直接触れているわけではないのですが)、おそらく、このブログのことだと思われます。


www.pojihiguma.com
www.pojihiguma.com

僕もちょうど眺めていて、なんだかずっとモヤモヤしていたのですけど、考えたことをつらつら書いてみます。


このブログ主さんは、1日に20記事を更新するという「超多更新」に挑戦されていて、僕も気になって、その日、何度か覗いていたんですよね。
本当に、よくやるなあ、と。
僕も「よくそんなにマメに更新できますね」と言われることがあるのですが、1日に20記事も更新しようとは思いません。というか、もしそれだけストックがあれば、1か月くらい、ラクできるよなあ、と。
でも、この「自称・超多更新」をみていて感じたのは、「書いている側の熱意と、読んでいる僕が受ける印象との解離」だったんですよ。

「一つたりとも手を抜いた記事などはございませんから」
「2/1に1日20記事更新という狂気じみたチャレンジを実施し、それを達成しました」


 たぶん、書いた本人にとっては、その通りなのだと思います。
 「きょうは何の日」「NHKニュースからの抜粋」「共感を求める愚痴」というのは、コンテンツとして、どうリアクションして良いのか分からない人が多かったのではないかと思うけれど、「スパム」扱いされるほど酷いものでもないと思う。
というか、ネットにはもっとしょうもないものがゴロゴロしていて(もちろん、このブログもそのひとつです)、まだマシなほうじゃないか、という気もします。


ただ、率直に言うと、これって、どうも本人が努力しているほど、周りには伝わっていないんじゃないか、という感じがするんですよね。
そもそも、いまのブログには「予約投稿」という機能がありますから、1日にたくさん投稿するだけであれば、記事をストックしておけば、一度に放出することによって簡単に実現できるのです。
そして、最大の問題は、「多更新」で、何を見せたいのかが、よくわからないこと。
更新数が多い=スパム、ってことはないでしょうけど、せっかく苦労してリアルタイムに記事を書いて1日に何度も投稿するのであれば、そういう「リアルタイム性」みたいなものが伝わる記事じゃないと、読む側にとっては「在庫一掃セール」にしか見えません。


「多更新」といえば、中川翔子さんが、2009年に「231更新」という記録をつくっておられます。

getnews.jp

まあ、数そのものはすごいのですが、内容的には、そんなに長くもないエントリばかりです。
もともと人気ブログだから、これで受け入れられる、というのも事実。


でも、中川さんはわかっていたのです。
「その人の『今』が伝わるような内容だからこそ、リアルタイムで1日にたくさん更新する意味がある」ということを。


「これなら、予約投稿でも良いんじゃない?」と思うような内容だと、いくら1回ずつのボリュームがそれなりにあったとしても、読む側からすれば、「別に追っかけなくてもいいや」と思ってしまうのです。


24時間テレビ』が、全部事前に収録された番組だったら、いくら24時間続けて放送されていても、全く面白くないですよね。
(あれが「面白い」かどうかの時点で、意見が分かれるとは思うのだけれども)


そもそも、「これは狂気の沙汰だ!」って言われても、こちら側からすれば、「予約投稿で同じことができるのに、自分ですごいすごいってアピールされてもねえ……」という感じで、押されれば押されるほど、引いてしまう。
その「狂気」とか「苦労」っていうのは、あくまでも「そちら側の事情」であって、こちらとしては、コンテンツ(それを書いている人も含む)に興味がわくようなものでなければ、背景はどうでもいいのです。
むしろ、淡々と更新していたほうが、凄味があったのではなかろうか。


僕だって、自分の子どもが運動会でがんばっていたら、ビリでも「よくがんばったね!」って言いますし、一生懸命応援します。
でも、どこの誰だか知らないオッサンが「僕はがんばっているんだから、応援してくれるのが当然!」って言っていたら、「まずは日本新記録くらい出してみろよ」としか思えない。


d.hatena.ne.jp


この小保方さんの本のなかで、「ダメ部員なのに、部活をがんばっていた私」についての話を、けっこう延々としました。
それは、僕なりにダメ部員をやっていて痛感したところがあるからなのです。


もしあなたが高校の野球部員だったとします。
実力はいまひとつだけれど、毎日練習後も残って、素振りを続けている。
血のにじむような努力です。
それで実力がアップするかもしれないし、その練習の光景を偶然みかけた監督が、次の試合で「あいつを使ってみようか」と思うかもしれません。
世の中には、「がんばっている人を、なんとかしてやろう」と思う人も、少なからずいる。
でも、もしあなたが監督に、自分から「僕はこんなに素振りしているんですから、試合に使ってくれないのはおかしいですよ」と言ったら、どうでしょうか。
それは、「向上心」というより、「打算」になってしまう。
少なくとも、周囲はそう感じるでしょう。


「努力」は、「結果」のためにやるものですし、そのためには「何のために、何を目指して努力するか」という戦略が必要です。
「努力のための努力」には、あまり価値がありません。
「努力しているのを他者に見せるための努力」は、無意味です。


ただ素振りの回数を誇るより、そのスイングが正しいのかどうかを、まず考えるべきです。
間違ったスイングを繰り返すことを、周囲が「いっぱい練習して偉いね」と褒めるのは、百害あって一利なし。


www.pojihiguma.com

あと、これを読んでいて「あー」と思ったのは、購読者数が減ったことに対して、あれこれ仰っていることです。
僕もブログをやっている人間なので、気持ちはわからなくもないんですが、こういうふうに去っていった人にあれこれ言うのほど、デメリットだらけの行為って、あんまり無いと思うんですよ。
僕がこれを読んで思ったのは「うわー、一人購読者が減っただけで、こんなブチブチ言うひとめんどくせー、監視されているみたいだ……この人の読者には、ならないほうがいいな」ということでした。
こういうのって、どうせ去る人は去るし、新しく来るかもしれない人を尻込みさせるだけで、全然良いことないですよ。
「来る人は拒まず、去る者は追わず」で、全体として少しずつでも増えていってくれたら嬉しい、というくらいじゃないと、送り手も受け手もやってられません。
個人的には、「こんな検索ワードで来ていた!』とかいうアクセス解析に基づくエントリも、死んでもやらないことにしています。
僕は、ブログを書いている人と読んでいる人との距離感はそのくらいが良いと思うし、それが書いている側の「作法」だと自分で決めています。


お前の考えを押し付けるな、って言われるでしょうし、たしかに押し付けているような感じですけど、僕には「PVが欲しい」「多くの人に読んでもらいたい」と切望しているわりに、打っている手があまりにも裏目裏目にみえるのです。
それだけの時間と手間と意欲を使うのであれば、もっと良い方法があるのではなかろうか。
いくら試行の数を増やしても、ちゃんと結果を解析し、改善しようとしなければ、同じ間違いを多量に生産するだけです。


僕自身、いろんな「間違った努力」を繰り返してきた人間なので、偉そうなことは言えませんし、槍玉にあげてしまって大変申し訳ないのですが、こういう事例って、ブログ運営にかぎらず、ものすごくたくさんあるのです。



絶望に効くクスリ Vol.11』(山田玲司著・小学館)のなかで、「漫画の神様」手塚治虫先生の長男でもある、映像作家・手塚眞さんが、こんな話をされていました。

山田玲司若い人によくどんなアドバイスをされるんですか?


手塚眞自分を見失わないように…って、よく言ってるんですけど……苦労と…努力が…イコールになっちゃうといけないですね。


山田:苦労してるのを努力してると思ってる人って多いですもんね。


手塚:苦労はしないほうがいいですね。一番の違いは、「やらされてる」か「やってる」かっていう違いだと思うんです。
 実は一回だけ父に「ものづくり」について言われたことがあるんですけど……
 街頭モニターとかに流す環境ビデオを頼まれたんで、割り切って作ったものを父が見たらしいんですよ。どっちみちたいしたものじゃないって思ってたけど、父はその時…「もっと面白くしたほうがいいねぇ…」――って言ったんですよ。


山田:……わかります。それ、すっごく…
 クリエーター、治虫哲学の本質ですね。


手塚:どんな仕事だっていいけど、どれくらい努力してんのかって言われたんですね。これは今でも頭をよぎりますね。


「苦労自慢」は、誰も幸せにはしない。
 どうせだったら、結果につながる「努力」をしてほしい。
 これまで、無駄に「苦労」ばっかりして人生を浪費してきた愚かな先達からの、ウザい遺言みたいなものだと思ってください。


 ただ、ブログっていうのは「こんな多更新という不毛な行為を、自分では凄いと思いこんでやっている人間の姿」そのものが、コンテンツとして消費される世界でもあるんですよね。
 だから、id:pojihigumaさんのやり方は、ある意味「正しい」のかもしれないのだけれど。