参考リンク(1):村上春樹の「好き」「嫌い」はどこで分かれるのか? に関する一考察 - (チェコ好き)の日記
村上春樹ファンとしては、いろいろと語りたくなるエントリだったのですが、限りなく長くなってしまいそうなので、以下の部分に関して、思いついたことを手短かに書いてみようと思います。
(あくまでも僕の独断と偏見に基づくものなので、あんまり怒らないでね)
村上春樹の小説で孤独をうったえる主人公は、“孤独”とはいっても恋人か都合のいい美女がすぐに現れるし、経済的にも恵まれていて、(つくるはちがいますが)友人もいる場合があります。そして、青山や恵比寿のオシャレなバーへ、颯爽と入っていく。「そんなオシャレな“孤独”は“孤独”じゃない!」というのが、アンチ派から多く聞く声です。
でも、私はやっぱり村上春樹の世界の主人公たちは、孤独だなぁと思うんですよ。友人がいない、恋人がいない、お金がない、というのも確かに“孤独”だけれど、それらをすべて手に入れた上でもまだ満たされない心、孤独っていうのが、私はあると思うんです。前者の「もたない孤独」を書いているのが西村賢太で、村上春樹は後者の「もっている上での孤独」を書いているんだと、私は考えています。
だから、西村賢太的孤独を求めている方が村上春樹の孤独を批判するのは、八百屋さんに行って「何でケーキが売ってないんだ!」って言っているように、私には聞こえるんですよね。孤独にも、いろいろ種類があるのです。必ずしも西村賢太の孤独のほうが奥深くて、村上春樹の孤独は浅はかだ、とはいえないと思うんです。
村上春樹の「孤独」と、西村賢太の「孤独」か……
僕が以前書いた、両者の「孤独」に関する2つの文章を御紹介しておきます。
参考リンク(2):村上春樹が怖い(琥珀色の戯言)
参考リンク(3)【読書感想】一私小説書きの日乗(琥珀色の戯言)
参考リンク(2)は、「原稿流出事件」について村上さんが書かれたものを読んでの感想です。
それは、「報い」なのかもしれないけれど、「自分の才能を信じていた作家志望者」に対して、「彼は作家として必要不可欠な『何か』が決定的に不足していた」と結論づける村上さんの言葉は、僕にはとても冷たいもののように感じられます。それが「事実」で「現実」であるとしても、です。ましてや、「文藝春秋」でそれを公言されるなんて、ものすごい屈辱なのではないかと、僕はちょっと安原さんに同情してしまいます。死者である安原さんには、もう自力でこの「評価」を覆す方法もないですし。
僕は、こんなことを勝手に想像してみるのです。もし安原さんの霊が現れて、村上さんの前に手をついて、「村上(って呼んでいたかは知りませんが)、すまん。癌の治療のためのカネがどうしても都合できなくて、おまえの生原稿を売ってしまった。勘弁してくれ…」と謝ったとしたら、どうだろうか?と。
村上さんは、そういう場合でも、「いや、それはそちらの事情で、あなたがやったことは『編集者失格』ですよ」と無表情なまま答えそうな気がするんですよね。それは、冷酷とかそういうのではなくて、単に、村上さんはそういう人間だということです。
村上さんが小説のなかで「村上春樹的世界観に対立するもの」を否定していくとき、僕は一読者として喝采します。「そうだ、お前なんか、この世界には『異物』なのだ」と。でも、今回の件は、僕にとってはじめて、現実世界で「村上春樹の正しさ」が、「非村上春樹なもの」を排除していく姿を目の当たりにするものでした。もし自分が、この「異物」と認識されたらと考えると、僕は正直、村上春樹が、村上春樹的なものが怖くなりました。
村上春樹さんというのは、ある種の「潔癖さ」を抱えて生きていて、強い自制心と向上心みたいなものを持って生きている人のように思われます。
そして、自分の周囲の他人に対しても、自分の世界に入ってくるための「資格」みたいなものを要求しているのかもしれません(もちろん、文庫本に「会員限定」なんて書いてありませんが)。
村上春樹ファンというのは「自分は村上春樹がわかる」あるいは「村上春樹は自分のような人間のために書いてくれている」と多少なりとも感じているのではないかと。
でもまあ、そういう生き方っていうのは「自分に合わないものは切り捨てる」というところもあって、だから「孤独」になってしまいがちです。
自分から他者を避けてしまうタイプの孤独とでも、言えばいいのかな。
ただ、とくに最近の村上さんには「それでもやっぱり、この世界にコミットしていく」という覚悟を感じるようになりました。
他者への視線も「そういうこともあるんだろうな」と優しくなってきたように思われます。
一方、西村賢太さんの「孤独」といえば……
それにしても、西村さんの生活というのは、なんというか「こんな生活をしていて、よく小説のネタがあるなあ」なんて考えてしまうようなものなのです。
夜遅く(というか、明け方近く)までお酒を飲んでいて、昼くらいに起きて、いつものラジオ(『ビバリー昼ズ』)を聴き、小説やエッセイを書いたり、テレビやラジオに出る仕事があれば、それをこなし、夜になったら編集者たちと飲みに行き、寝る間際になって、「弁当2個+カップラーメン」みたいな、不健康極まりない生活を、同じように繰り返しておられるのです。
「それ、生活習慣病まっしぐらですよ……」と、言いたくなってしまいます。
さらに、担当の編集者たちともしょっちゅういざこざがあり、小さな絶交を繰り返していたりして。
読んでいると、「編集者って、大変な仕事なんだなあ……」と、むしろ編集者のほうに同情してしまうんですよね。
テレビに出演しているときの西村さんは、そんな「武闘派」の雰囲気はほとんどなく、不器用で照れ屋の文士、という感じに見えるのですが。
なにはともあれ、なかなか「難しい人」であることは、間違いなさそうです。
西村さんは、高頻度に酒場で編集者とケンカをし、「もう絶交だ!」と宣言しています。
でも、しばらくすると、どちらともなくまた仲直りをして、同じように飲んでいる。
その繰り返し。
周囲も「とんでもない人なんだけど、なんか放ってはおけないんだよなあ」という接しかたをしているようにみえます。
西村賢太さんは、他人に自分からにじり寄っていくけれど、近づこうとすればするほど、避けられてしまうような「孤独」を抱えているのではないかな、と。
村上春樹さんの「孤独」って、ある意味「孤高」みたいなところがあるんですよ。
「自分はみんなとは違うのではないか」っていう。
あるいは「違わなければならない」っていう。
どっちが良いとか悪いとか、そういう話ではないのですが、同じ「孤独」という言葉が使われていても、このふたりが置かれている世界というのは、全然違うんですよね。
村上春樹さん側(の読者)からすれば「そんなカネがないとか友達がいないとかは、自分をしっかり持っていれば、根源的な問題じゃないだろ」って感じでしょうし、西村賢太さん側(の読者)からすれば、「そんなに恵まれてるのに『苦悩ごっこ』してんじゃねえよ」って言いたくなるはず。
とはいえ、あえて言ってしまえば「本当に社会から孤立し、孤独のどん底にいる人」は、村上春樹も西村賢太も、たぶん読まないんですよね。
朝日新聞の「ワーキングプア特集」と同じように。
そういう意味では、どちらも「似たような孤独ごっこ」だとも言えるのかもしれません。
まとまらなくて、申し訳ない。