この村上春樹さんの回答がちょっと話題になっているようです。
「自分が好きなものを他人がどう思うかなんて、いちいち気にしないほうがいいよ。どうせ相手はよくわからないまま批判しているのだから」というニュアンスの話を村上さんはされているのではないかと僕は考えているのですけど。
そして、「どうせだったら、誰もあれこれ言えないくらいの『わけのわかんないところ』まで行ってしまえばいいよ」と。
まあ、これはあくまでも僕の勝手な解釈。
ところで、これを読んでいて、僕もこの質問者と同じ中学生の頃、「自分が好きなものを誰かに紹介するのが苦手」だったことを思い出しました。
当時の僕が好きだったのは、マイコンとかテレビゲームとか歴史の本とかだったのですが、「クラスの主流派(とかいうのもおかしいんだけど、当時はそう見えていた)である体育会系の連中は、「マイコンとか、暗い」「そんな本とか読んで、楽しい?」などという感じだったのです。
数少ない同好の士たちと、いつもつるんでいました。
まあ、それでも、今から考えると、クラスに何人かは「同好の士」がいるレベルの趣味なんて、全然マイナーでもなんでもないんですけどね。
僕はずっと「あなたは何が好き?」という質問が、すごく苦手で。
食べ物とかなら、まだ良いのですが、「好きな音楽」とか「好きな作家」とか「好きなプロ野球チーム」とかの質問に答えると、「いや、特に……」とか、口ごもってしまっていました。
というか、他の人に「僕はこの歌手が好きです」って言ったときに、「えっ、お前、○○なんかが好きなの?あんなのありきたりでつまんないじゃん」って否定されるのが怖かった。
そこで、言い返せずに「そういえばそうだね」みたいな態度になってしまうのが、悲しかった。
あの年頃って、なんていうか、「否定するのがカッコいい」みたいな時期じゃないですか。
音楽も、誰かが歌っているのは苦手で、映画音楽とか、ゲーム音楽とかばかり聴いていたのです。
何かを好きになることは、自分の弱点を増やしてしまうような気がしていました。
いまから考えると、否定するほうだって、そんなに深い理解もないまま「じゃれるような感じで、ちょっと批判してみた」のだろうけれども。
大人になって、そして、いま、こうやってネットをみんなが使うようになって、あらためて感じるようになったのは、「ネットのおかげで、僕は自分の『好き』を言葉にするのがラクに、そして楽しくなったのではないか」ということです。
学校のクラスのなかでは、「コイツ、○○なんかが好きなんだって!」とからかわれるのではないかと身構えるようなことでも、小さな瓶にメッセージを入れて、ネットという広大な海に流せば、誰かが拾って「私もそれ、好きですよ」って言ってくれることがある。
もちろん、すべての場合にあてはまるわけではないのですが、子供のころよりも、大人になれば、世界が広がる分、「好き」を共有できる可能性は高くなるし、ネットはその世界を、飛躍的に拡大してくれました。
ここにこうして、僕の些細なこだわりや気になったこと、昔のゲームの話、贔屓のプロ野球チームについてなどを書くと、「僕も!」「わたしも!」と共感してくれる人がいる。
ラジオのDJとか雑誌の連載エッセイとかを持っている人でなければ、「ネット以前」には、ありえないことだったと思う。
否定されて落ち込むことも少なくないのだけれど、世界が広がれば、どこかでこのボトルを拾ってくれる人がいる(かもしれない)。
むしろ、「同じようなことを考えている人って、案外多いものなんだな、僕は悲しいくらい『ふつうの人』なんだな」と感じることも少なくないんですよね。
僕は、自分の「好き」を言えるようにしてくれたインターネットに、けっこう感謝しています。
ようやく「好き」を言えるようになったときには、もうそんなに人生残ってないな……なんて、ちょっと悲しくもなるのですけど。