いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「大した努力をしなくても勝てる場所で、努力をしなさい」

参考リンク:サッカーで苛められていた。日本代表には早く負けてほしい - はてな村定点観測所


ああ、これはわかる。わかる自分が悲しい。
僕は学生時代を通じて、「運動音痴」として生きてきたので、ものすごく共感してしまいました。
いまだにみる「二大悪夢」は、「国家試験直前なのに、まったく勉強していない夢」と「体育の時間、球技で失敗する夢」です。
ほんと、体育の授業で「2人組をつくって」と言われたときに誰もパートナーが見つからないときとか、球技のときに「お前はボールに触るな」とか言われるのはひたすら悲しい。
そして、下手なんだけどプライドもあるので、スポーツ得意な人に「お前を活躍させてやるよ」なんて、上から目線(当時はこの言葉を知りませんでしたが)で「お膳立て」とかされたりすると、哀れまれている実感があって、やっぱりつらい。


正直、大人になってよかったなあ、と思うのは、お金の使い方をある程度自分の裁量で決められることと、体育の授業に出なくてもよくなったことです。


昔、テレビアニメ『ちびまる子ちゃん』で観た、こんな場面を、いまでも覚えています。

マラソン大会が大嫌いなまる子。
マラソン大会に雨が降ることを、心から願っているのです。


しかし、そうやってマラソン大会を呪っているうちに、
「うーん、今年のマラソン大会が終わっても、あと一年たったら、次のマラソン大会がくるのか……」
と、絶望感にさいなまれてしまうのです。


ああ、これわかる。
僕にとっての体育の授業って、「この時間をなんとかやりすごしても、あさってには、また次の体育の時間が……」って感じだったんですよね。
ほんと、もう学生時代には戻りたくない。


まあでも、実は「スポーツ観戦」は、けっこう好きなんですよね。
プロ野球は「カープおやじ」だし、サッカーの男子ワールドカップもけっこうマメに観戦しています。
サッカーの場合、試合が面白いというよりは、夜更かしできる理由があることが嬉しいとか、そういうのがけっこう大きいような気がするんですけど。


僕の場合、スポーツを自分でやることがあまりに嫌いすぎて、「自分がやっているサッカーと、プロスポーツ選手がやっているのは別物」とか認識するような回路が、自分のなかに出来あがっているのかもしれません。
ゴルフとか、自分でやってみるとまともに飛ばずにコースをひたすら走り回り、170くらい叩いてしまって、それ以後、クラブを握ったことすらないいのですが、テレビゲームのゴルフは大好きですしね。
内心「こんなにうまくいきゃ、苦労しないよな」なんて自分にツッコミつつ、『マリオゴルフ』とかをやっています。
もしかしたら、あまりにも自分ができないから、すごくできる人に憧れてしまうのかな。
このあいだ、ロシアのキーパーが正面のボールをうまくキャッチできずに後ろにそらしてしまい、ゴールされた場面では、「ああ、これは体育の授業のときの僕だ……」なんて、観ていてつらくてしょうがなかったんですよね。
とりあえずロシアが同点に追いついてよかったよ。
ワールドカップに出るような選手が、そんなことで共感されたくもないでしょうけど、運動音痴のミスって、なんだかもう「なんでそんないちばん悪い方向にボールが転がっていくのかね……」ということになるんだよね。こっちは何も悪気はないのに。


この参考リンクに対するブックマークコメントで、id:netcraftさんのトラウマを全否定するようなものが散見されたのは、読んでいて悲しくなりました。
この手の「傍からみたら理不尽かもしれないけれど、本人にとってはどうしようもないトラウマ」を持っている人って、けっして少なくはないと思うんですよ。サッカーに限らず、ね。
「だから日本代表負けてしまえ」っていうのは、口に出して撒き散らしてしまうと反発を招くことは必至だし、それも承知の上でのあのエントリではあったのでしょうけど。


僕はこういうトラウマの表明に対して、嬉々として傷口をえぐり、書いた人を攻撃するコメントを書く人が大嫌いです。
もちろん、書く側は、ある程度「覚悟」はしているんですけどね。


人間の「傷つくポイント」っていうのは、いろいろあるんですよ。
僕の場合は、もうスポーツに関しては「観るだけの人」であることを決めてしまっているのですが、自分がちょっと関わってきたり、仕事としてやってきたことのほうが「つらくなる」のことがあります。


小保方さんがSTAP細胞でメディアに大々的に採り上げられていたとき(論文捏造問題でバッシングされていたときではなくて、割烹着とかで、みんなが好意的に採り上げていたとき)、僕はなんだか、小保方さんの成功を観ているのがせつなかったのです。
僕自身が、"Nature"に載るような大きな仕事をしていたわけではなかったけれども、自分より年下の研究者が、あんな劇的な成果を上げたことに、嫉妬していたのです。いや、明らかな嫉妬っていうよりは、なんで、自分はああいう成果を出せる人間になれず、中途半端に研究をして結果も出せず、こうしてお金を稼ぐための仕事を続けているのだろう」とかいうような、後悔の念というか……
それは別に、小保方さんのせいじゃないんですよ。
でも、あの小保方さんに関する報道は、僕のそういう澱みが漏れ出してくるトリガーになっていたのです。
だからといって、小保方さんに表立って不快感を表明することはなかったんですけどね。
だって、そういうのが「理不尽」なのは、頭では理解していたから。
せいぜい、その関連のニュースが出てきたら、チャンネルを変えていたくらいで。


見たこともないものは、欲しいとも思わないけれど、いちどその世界に触れて、手が届くかもしれないと思ってしまうと、なぜ自分がそこに届かなかったのかと、悲しくなってしまう。


ただ、運動音痴のときの悲しい記憶は消すことができないのですが、僕自身としては、それが長い目でみればプラスになった部分もあったのかな、とも思うんですよ。あんまり認めたくもないですが。


東進ハイスクール』の林修先生が著書『いつやるか? 今でしょ!』のなかで、こんなことを書いておられます。
 林先生は、いまや人気者なのですが、この本を読んでいると、イベントも、群れるのも嫌いで、銀行に就職したのにすぐ辞めて起業したものの失敗、競馬にハマって借金、など、かなり「負の体験」を積み重ねてきている人でもあるのです。


 林先生は、「勝つための秘訣」を、こんなふうに仰っています。

「大した努力をしなくても勝てる場所で、努力をしなさい」


 僕が授業でよく使う言葉です。どの世界にも一流と呼ばれる人がいます。野球のイチロー選手など、スポーツ選手で例をあげていけばきりがないでしょう。こういう人は誰よりも努力し、自己管理も厳しく行って今の地位を維持している、そのことに異存はありません。しかし、最初から、あるいは少しやってみたときに、周りとはひと味違うキラリと光るものをもっていたことがきわめて多いのではないでしょうか?


(中略)


50年近く生きてきて思うのは、
本当に得意な分野はそんなに多くはない
ということです。逆に言えば、これは勝てるという場所を1つ見つけてしまえば、人生は大きく開けます。今うまくいっている人とは、「僕はこれしかできません、でもこれだけは誰にも負けません」と、胸を張って言える人のことではないでしょうか?


 勉強もダメ、運動もダメ、でも誰よりもすごい寿司を握る自信があって、実際に店がお客さんでいっぱいなら、それでいいのです。また、僕が水商売でうまくいっている女性を尊敬するのも同じ理由です。みんな自分の走るべきレースを見定めて、そこで勝負をしているのです。そこにどうして貴賤があるのでしょうか? 罪を犯しているわけでもなく、他人がとやかく言う話ではありません。


 僕自身の大学入試の現代文の解き方を教えるという仕事もまた、世の中に無限といっていいほど存在する仕事の種類のなかのたった1つにすぎません。そもそも大学受験をしない人にはまったく無価値であり、その世界自体も実に狭いものです。そのことを自分でちゃんと認識しています。しかし、大学入試がなくならない限り、この世界は存在し続けるのです。それもまた事実です。


 競馬では1200mなら絶対に強いという馬がいます。もっと範囲を狭めて、京都競馬場ではまるっきり走らないのに、中山競馬場1200mになると別馬のように強い、という馬もいます。それでいいのです。なぜなら、中山競馬場の1200mのレースは、今後も確実に施行されるのですから。


ああ、なるほどなあ、と。
競馬にさんざんハマっていたという林先生らしいたとえです。


正直、「勉強もダメ、運動もダメ」という人が、誰よりもすごい寿司を握れるケースって、少ないんじゃないかな、とは思うのですけどね。僕の観測範囲では、一芸がきわめてすぐれている人って、他のことをやらせても、けっこうできることが多くて、「この人、別の仕事をしても、成功していただろうな」と感じることが多いから。


こういう「中山1200mでしか好成績を残せない馬」って、僕はけっこうバカにしてしまいがちなんですよ。
「そういう特定の条件でしか結果を出せないなんて、真の実力がない」とか「京都競馬場じゃ用無しのくせに」とか。


でも、林先生は「それでいいのだ。そこに存在価値を見いだして、生き延びることができる。中山でのレースが続くかぎり」と考えるのです。


「じゃあ、向いているレースを狙って、走ればいいのだ。それならば勝てるし、勝てれば大事にされるのだから」

 自分の負けるレースには参加しません、だから僕は負けませんよと、本当に自信をもって言える人は、数限りなく負けてきた人なんです。ただ、負けただけではなく、そこから多くのことを学んだ人なんです。連戦連勝で来た人は、その自信もあって、僕は何でも勝てますよ、と言うはずですが、実はこういう人は危ういのです。

負けることの積み重ねによって、自分の適性や負けそうなときの危険信号を知ることができる。
だから、「若いうちに、いろんなことに挑戦して、負けが許されるうちに負けておいたほうがいい」。


僕だって、負けたくはないし、トラウマを克服したい、という気持ちもあります。
でもね、あの「体育地獄」があったからこそ、僕は「運動音痴でも生きていける道」を真剣に探ったのかもしれません。
たいした人間にはなれていませんが、とりあえず生きてはいます。
「自分にはできないこと」「向いていないこと」を身にしみる形で理解するのは、ある意味「不正解の選択肢を消すこと」でもあるのです。
馬はどんな条件であれ、とりあえず走ることが速くないと淘汰されてしまうけれど、人間って、いろんなジャンルで、何かひとつでも「得意なもの」があれば、それで、一人生くらいは生き延びることができますし。


体育が苦手な子どもこそ、大人になることを楽しみにしてもらいたい。
ほんと、「昔に戻れるなら、何歳の頃がいいですか?」なんて聞かれても、僕は絶対に「戻るなんてまっぴらごめん」ですからね。



いつやるか? 今でしょ!

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