いつか電池がきれるまで

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『ゲームボーイ』と「平成」という時代


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 平成31年4月21日で、初代『ゲームボーイ』が発売30周年を迎えたそうです。
 『ゲームボーイ』が大ヒットされる前までは、家庭用ゲーム機は据え置き型が主流で、任天堂は、『ゲームボーイ』によって、『ゲームウォッチ』で止まっていた時計の針を動かした、とも言えそうです。


 発売当時、高校の寮にこっそりゲームボーイを持ち込んだ僕は、毎晩、学習時間に部屋でこっそり『テトリス』をたしなんでいました。
 推薦で受かってしまったんで、学習時間を持て余していたんですよ、なんていうのは言い訳です。
 『テトリス』は、いろんなことを考えなくてすむゲームであるのと同時に、僕にとっては、「本当に頭のいいやつ」が、信じられないようなスピードでクリアしていくのをみて驚かされることも多かったのです。
 このゲームがものすごく上手いやつは、みんな、理数系の成績が飛び抜けてよかったという記憶があるのだよなあ。
 あとは『スーパーマリオランド』『魔界塔士 Sa・Ga』、ゲームボーイ晩年の『ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド』。
 大学に入ってからは一人暮らしをしていたこともあって、携帯ゲーム機にはそれほどありがたさを感じなくなり、『ポケットモンスター』は、子供向け」のイメージで、当時はほとんど触らなかった記憶があります。


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 横井軍平さんは、「任天堂」という会社を「ゲーム&ウォッチ」で大きく躍進させ、ファミコン後には、「ゲームボーイ」というニンテンドーDSが登場するまでは、「世界でいちばん売れたゲーム機」を開発します。
その「ゲームボーイ」について、横井さんは、こんな話をされていたそうです。

横井:当時、カラー液晶テレビなんかもありましたけど、電池寿命が1時間半だとかだったんですね。しかも、バックライト液晶というのは屋外の明るいところでは見えないんです。ですから、モノクロという選択しかなかった。
 私はいつも「試しにモノクロで雪だるまを描いてごらん」と言うんです。黒で描いても、雪だるまは白く見えるんですね。リンゴはちゃんとモノクロでも赤く見える。

 横井さんは、ずっと、「人間の、とくに子どもの『想像力』」というのを信じていた人だったと僕は思うのです。
そして、横井さん自身は、ずっと、任天堂というゲームメーカーの中にいながら、「いかにして、テレビの画面から子どもたちをはみ出させるか」を追い求めていた人のように見えます。
 コスト的にかなり厳しかったゲームボーイで、最後まで「通信ポート」を残したのも、そんな横井さんの判断だったのです。

 横井にとって「遊び」とは、何人かの友人が集まって遊ぶことで、一人で遊ぶのは友だちがいなくてしかたのないときにすることだった。「コンピューターは難しいから、嫌いや」という横井の言葉は、ただ技術的なことだけを言っていたのではないように思う。コンピューターと対戦すると、どうしても一人遊びになってしまう。そこに横井の生理は拒否反応を示していた。


 

この本には、『ゲームボーイ』開発時のこんなエピソードも紹介されています。

1989年に発売されたゲームボーイの名前に、ファミコンのように<コンピュータ>という文字が含まれなかったのは象徴的だ。この新型ゲーム機は、<おもちゃ>であることに徹していた。おもちゃとは、子どもや大人を問わず、誰もが一目見ればすぐに遊べて、乱暴に扱っても壊れないものだ。「分かりやすさ」と「堅牢性」では、並の家庭用ゲーム機は足下にも及ばない。

 そして任天堂には、長年の経験に裏打ちされた「おもちゃを見るプロ」かつ「ゲームの素人」で、しかもゲームボーイの企画をちゃぶ台返しできる人物が一人いた。当時の社長・山内溥その人である。
 山内にまつわる二つの逸話は、どちらもすさまじい。一つは、ゲームボーイの試作機をプレイしてみたときのエピソードだ。当初の試作品は、ゲーム&ウォッチと同じ、斜めから見やすい「TN液晶」を採用していた。これは「電卓をのぞき込む」姿勢に適しており、サイズの小さいゲーム&ウォッチでは特に問題とされなかった。
ところが、山内はゲームボーイをつかむなり、おもむろに正面にかまえた。
 「何だこれ。見えへんやないか」
 ゲームボーイは本体サイズがかなり大きくなっているため、自然とバランスのいい真正面か上部からつかんで見ることになる。予備知識のない山内は、初めてのおもちゃを手にする子どものように、ゲーム機に面と向かったのだ。
 「どうするんや、これ。こんな見えへんの売れへんぞ。もう、売るのやめや」
 自力で液晶を製造できない任天堂は、シャープと協力して開発にあたっていた。すでに「TN液晶でいける」という前提のもとに、40億円をかけて製造工場が建設されていたのだ。粛々と既成事実が積み上がる中で、“リセットボタンを押せる”のは山内のほかにいない。
 そこで、急遽「STN」というタイプの液晶に変更されたが、結果としてこれが吉と出た。たしかに表示スピードが遅く、動きの激しいゲームでは残像が発生したりと欠点はあったが、ソフトの作り方によって対応できなくはない。STN液晶は明るい部分と暗い部分のコントラストが利いていて、正面からも見やすく、日光のある屋外でもゲーム画面が確認できる。「遊ぶ場所を選ばない」携帯ゲーム機としては、いい落としどころだ。
 もう一つの逸話でも、山内はまるで子どものようにふるまった。開発陣から渡された最終デモ版の試作機を、いきなりカーペットの敷かれた床に投げ出したのだ。ゲーム機は子どもが買うものだかあ、乱暴に扱っても壊れては ならない、と社長じきじきに「強度テスト」をしてくれたのだ。
そのかいあって、ゲームボーイは「史上もっとも頑丈なデジタルガジェット」と海外でも定評がある。湾岸戦争のさい、任天堂が“戦時支援”として米軍兵士に提供したゲームボーイのうち1台が空爆を受けた家屋から発見され、表面は焼けただれていたがゲームは問題なく動いた、と驚きのニュースが流れたくらいだ。任天堂の社長と空爆、二つの試練に鍛え抜かれたタフガイなのである。


 ちなみに、ゲームボーイで『ポケットモンスター』が発売されたのが1996年の2月。
 また、1997年は、インターネットが爆発的に普及しはじめた年だったそうです。

 僕にとっての「平成」は、「インターネットと個人主義(というか、家族主義の崩壊)の時代」だったのです。


 「家族のひとりひとりが『自分のゲーム機』を持つ時代」を切り開き、その一方で、通信ケーブルで「他者とつながる」ことの可能性を子どもたちにもわかりやすく示した『ゲームボーイ』というのは、まさに「『平成』という時代を象徴するアイテムだったのではないか、と思うのです。

 その一方で、平成の終わりとともに、ニンテンドー3DSの市場が急速に衰退し、任天堂ソニーも次世代携帯機に関しては消極的になっているのです。
 SWITCHは、「携帯もできるゲーム機」だけれど、あの大きさは「ちょっと公園に持っていく」のは難しいのではなかろうか。
 僕としては、まだまだ携帯ゲーム機市場も捨てたものではない、と思うのだけれども、なんだかメーカーのほうが切り捨てようとしているように感じています。
 スマートフォンでゲームをやっていると、やっぱり「操作性」って大事だよなあ、って思い知らされますし。


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テトリス・エフェクト

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