いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

戸田真琴さんと、しの(@raf00)さんと、画面越しのコミュニケーション

tenshoku-web.jp


 この記事が、たいへん面白かったのです。


rioysd.hateblo.jp

 戸田真琴さんのことをはじめて知ったのは、このAVデビュー時の記事で、僕は正直、「なんでそういうことになってしまったのだろうか、こういう人の「不安定さ」を利用してコンテンツにするって、なんか引っかかるよな、と思っていたんですよ。
 自分の娘であってもおかしくない年齢でもありますし(僕には娘はいませんが)。
 

 戸田さんのnoteが話題になっていて、僕もこれを読んで、「平凡な人生にギリギリのところで適応している自分」を応援してもらえたようで、けっこう感動したのです。
note.mu


 ただ、その一方で、「平凡な人生も立派です!」という発言がこんなに注目され、もてはやされるのは、発言者が「平凡じゃない人」だからなんだよなあ、とも思っていたんですよね。
 戸田さんに対しても、「とはいえ、あなたはその『平凡』の枠におさまりきれなかった人ではないのか」と。
 そんなのは言いがかりとか八つ当たりの部類でしかないことは百も承知なのだけれど、特別な人が「平凡はすばらしい」と言うと賞賛されて、平凡の側から「何者か」に憧れると、「承認欲求」だとか「自意識過剰」と言われてしまうことに、不均衡を感じてしまうこともあるのです。
 どちらも「隣の芝は青い」みたいなものじゃないか、とも思うし。

 
 冒頭のインタビューのなかで、いちばん印象的だったのは、戸田さんのこの言葉でした。

たまに、お手紙とかを頂くんですよ。
女性に対してコンプレックスを持っていて、風俗も怖くて行けなくて、でもAVは観れる……って方から、『家でまこりんのAVを観てすごく好きになりました』みたいな感想を頂くことがあって。
私にとって、AV女優になって正解だったなと思う一番の瞬間はその時なんです。
そういう言葉をもらうたびに、『私は、直接よりも画面越しにコミュニケーションを取る方が安心する人の味方でいたいなぁ』と思うし、続けていきたいと思うんです。


 僕は20年くらいネットで書いているわけですが、基本的に、人と会う、というのはいまだに苦手です。オフ会も一度しか参加したことがありません。
 平均以下の容姿と活舌の悪い喋りと空気を読めない行動しかできないオッサンで、がっかりされたくないなあ、と思う、思い続けているのです。
 よくそんなので対人サービス業とかできるな、って言われるのは百も承知なのですが、ほんと、現場では、自分の「役割」が決まっているからできるんですよね。診療の際のフリートークとかはきつい。
 この年齢になって、そういうのはお天気の話とか定型文で乗り切るのが無難かつ安定していて、世の中の「失言」の大部分は、「何か良いことを言ってやろう」という欲望から生まれてしまう、ということがわかってきました。
 本当に、30年前に今くらい、いろんなことがわかっていたら、もう少しマシな人生だったのではないか、と考えずにはいられません。
 
 戸田さんは、性というもっとも生々しい行為を見せながら、「直接コミュニケーションをとるのが怖い人」たちのほうを向いて仕事をしているのです。
 なんだか、とても不思議な気がします。
 もちろん、ビデオの中で見せているようなことを仕事外で強要されたり、ファンにつきまとわれたりするのは論外だと思うのだけれども、まるで自分をバーチャルアイドルにしてしまおうとしているかのようにも感じるのです。
 でも、彼女の文章は、生身の人間としての「矛盾」とか「痛み」とか「迷い」に満ちている。
 SNSで死なないで、と言いながら、自分自身もファンを増やすために「わかりやすいツイート」をしたり、ある日突然Instagramのフォロワーが激増しないかな、と夢想したりする。
 平凡が善とか、悪とかいうのではなくて、人には平凡でいたいときもあれば、特別な存在になりたいときもある。
 そのグラデーションは、人それぞれなのだけれども。
 社畜になんてなりたくない、とは言うけれど、インフルエンザで欠員が出れば、代わりに当直をしたり、残業をしたりせざるをえないときもあります。
 たまに、むしょうに苛立ったり、とんでもないことをやりたくなることもあるのだけれど、承認欲求の暴走のために、普通の焼肉屋で会計を気にせずに食べられる生活を失うのは怖い、というのは、けっこう現実的な歯止めでもある。


 昨日、訃報を聞きました。


 しの(@raf00)さんとは直接の面識はありませんし、ネットでも直にやりとりをしたことはほとんどないと記憶しています。
 それでも、長年、ネットのなかで姿を見続けていて、書いている側の僕としては、「自分が言いたい、面白いと思っていることを、うまく拾い上げてくれる人」だと思っていました。もちろん、持ち上げられるだけではなく、ときには厳しい指摘を受けることもありましたが、それは、僕にとっても痛いところであることが多かった気がします。
 直接のやりとりはほとんどなくても、ネットのなかで、「この人に読んでもらえて、ブックマークしてもらえるうちは、自分もまだそんなにブレていないと、なんとなく安心する」と感じていた、数少ない人のひとりでした。
 長年やっていると、そういう「定点」のような存在の人が、何人かできてくるのです。
 
 いまの世の中って、人間関係が希薄になったとか、ふれあいが失われた、と言われがちではあるのですが、僕自身は、こういう時代に生まれてよかった(できれば、もっと未来であればよかったのだけれど)、と感じていますし、ネット越しの人と人との関係には、現実社会での友人・知人ほど、いざというときにはアテにはできなくても、うまく生きられない人間が「なんとか人と接している感触」を得られるという良さもあると思うのです。
 しのさんは、僕とは違う人間関係のつくりかたをされていましたし、こういうのは僕の一方的な片思いみたいなものなのですが。


 僕自身は、「直接よりも画面越しにコミュニケーションを取る方が安心する人の味方でいたい」のです。
 そういえば、ネットになんかめんどくさいオッサンがいたなあ、と、ごくたまに思い出してもらえるくらいの。
 だからこそ、ネットだから、と他者に酷い言葉を投げつける行為には、腹が立つし、悲しくもなります。
 僕自身が何気なく発している言葉で、他人を傷つけていることだってあるだろうけど。


 「ネットの中だけの存在で良い」とか言いつつ、文章の仕事を頼まれると喜んで書いてしまうし、会ってみたいなあ、と思う人だっているし、やっぱり、自分でも徹底できないなあ、と感じるところはあるんですけどね。
 このくらい年を重ねてしまうと、かえって、「どうせ相手もたいして期待しないだろう」と、開き直れる部分もあって、少しずつ、厚かましくなってきたようにも思います。
 人生の「終わり」を考えるとき、やっておけばよかった、ということは、少しでも減らしておきたいし。


 しの(@raf00)さんの御冥福を心よりお祈りします。
 本当に、ありがとうございました。


 僕もいつか、ネットで誰かの「定点」になることができるのだろうか。


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ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)

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