まあ、ブラック企業的ですよねこれは。
結局のところ、自分は無償では働かないけれど、自分のために無償で働いてくれる人に関しては「問題なし」なのだから。
ネットをやっていると、自分だけは例外、になってしまう人が多いこと気づくのです。
(ちなみに僕もよくそう言われます。自分ではそんなつもりはない、というか、そうならないように注意してはいるのですが)
もちろん、何事にも完璧を期していては、何も言えない、ということになってしまうので、致し方ないところはあるのだけれども。
そもそも、本当にちゃんとした人間は、ブログに書くより、手や身体を動かしているのではないか、とも思う。
オンラインサロンの組織を「オウム真理教」になぞらえている人も多いのですが、たしかに、現代のオンラインサロンって、新興宗教的な感じがするんですよ。
この本のなかで、著者は、既成の宗教だけでなく、「新宗教」として、太平洋戦争後に信者を増やしてきた宗教も、近年、どんどん信者を減らしてきていることを紹介しています。
生長の家が衰退し、PL教団も衰退している。天理教も立正佼成会も、そして霊友会も信者の数は減っている。
しかも、衰退の勢いはかなり激しい。そこには、誇大に発表していた信者数を実情に即したものに変えてきたということも影響しているかもしれないが、たんにそれだけではないだそう。
というのも、信者数の減少は依然として続いているからである。
『宗教年鑑』の平成22年度版と26年度版を比較してみると、近年における変化がわかる。
生長の家の場合、平成22年度版では68万2054人であった。それが、平成26年版では55万310人である。この4年で13万人も減少していることになる。平成22年を基準にすれば、20パーセント近い減少である。
PL教団の場合には、この間、96万5569人が92万2367人に減少している。減少した数は4万人以上で、生長の家ほどではないが、信者は減り続けている。
ほかの教団についても数字をあげれば、天理教は118万5123人から116万9275人に、立正佼成会は349万4205人が308万9374人に、霊友会は151万6416人が136万9050人にと、それぞれ減少している。それも、わずか4年のあいだでの変化である。
増えている教団もないわけではない。
立川市に本部をおく真如苑の場合には、88万7702人が91万6226人に増えている。真如苑は、平成2年版では、67万2517人だったから、四半世紀の間に、4割近く信者数を増やしており、「一人勝ち」の状況を呈している。
ただし、『真如苑』は、他の新宗教に比べて組織性には乏しく、信者が本部などでカウンセリングを受けるのが中心で、信者同士の交流はほとんどないのだそうです。
著者は「『真如苑』を他の新宗教と同列に考えることには問題がある」と述べています。
もう少し長い期間でみると、PL教団の信者数の場合、『宗教年鑑』では、平成2年版が約181万人だったのが、平成26年版では約92万人と、24年間で半減しており、他の新宗教も軒並み信者数を大きく減らしているのです。
ちなみに、さまざまなデータから類推しての、現在の創価学会の実際の信者数は約300万人くらいなのだとか。たぶん、僕は知らなかったけど信者だった、という人とたくさん接してきたはずです。
著者は、日本で高度成長の時期に新宗教が急速に信者を増やした理由をこう説明しています。
中学を卒業したばかりの子どもたちは「金の卵」ともて囃され、専用の列車に乗せられ、都市部へと出ていった。この金の卵のなかには、その後、創価学会へと入会していった人間が少なくない。
大学を卒業していれば、大企業や官公庁に就職することができた。しかし、学歴が低くては、そうしたことはかなわない。彼らは労働者となっても、労働組合がしっかりと組織されているような職場に入ることができず、未組織の労働者として寄る辺ない生活を送らざるを得なかった。
そうした人間たちを吸収していったのが、創価学会だった。
ほかに、立正佼成会や霊友会といった、創価学会と同じ日蓮系、法華系の新宗教も同じ時期に大量の会員を増やし、巨大教団へと発達していくが、それも同じような経緯をたどってのことだった。
高度経済成長のような経済の急速な拡大は、社会に豊かさをもたらすが、その恩恵が社会全体に及ぶまでには時間がかかる。したがって、経済の拡大とともに、経済格差の拡大も続き、社会的に恵まれない階層が生み出されていく。
創価学会に入会すれば、都市に出てきたばかりの人間であっても、仲間を得ることができる。彼らは同じ境遇にある人間たちであり、すぐに仲間意識を持つことができた。
ただ都会に出てきたというだけでは、地方の村にあった人間関係のネットワークを失ってしまっているわけで、孤立して生活せざるを得ない。ところが、創価学会に入会すれば、都市部に新たな人間関係のネットワークを見出すことができるのである。
その宗教の教義に魅力を感じた、というよりは、誰も知らない土地で生活していくなかで、なんらかの人との繋がりがほしい、ということで、新宗教に入信していった人が多い、ということなんですね。
昔の本当に生活が苦しい、理不尽な死に直面するのが日常茶飯事な人々は「教義」に惹かれたのかもしれないけれど、新宗教の時代には「孤独から逃れる」ために入信した人も少なくなかったのでしょう。
なんで新宗教にわざわざ入信するのだろう?と僕も若い頃は疑問に感じていたのだけれど、「ひとりきりであること」と「宗教的なつながりでも、仲間がいること」と、どちらかを選べと言われれば、後者を選択する人が少なくないのも、いまはわかるような気がします。
しかしそれは、経済的に安定してきたり、その土地に長く住んでいたりすると変わってきますし、学校などで横のつながりができる次世代になると、「宗教への熱意」が激減するのは自然なことでもあるんですね。
いまの日本では「新宗教の熱心な信者である」と、無宗教の人からは、それだけで敬遠されがちですし。
ただ、人というのは、「寂しいから、仲間が欲しいから入信した」とは、なかなか自分では認めづらいし、他人にも言いづらい。
その組織に入ってしまえば、教義に忠実であることで、他者の上に立つこともできるし、外界への優越感を維持することもできる。
オンラインサロンを「オウム真理教みたい」だという意見はもっともなのですが、オウムも組織づくりにおいては、戦後の新宗教を参考にしており、いわば「伝統を受け継いでいた」のです。
オンラインサロンが報酬の面で「ブラック」だというのは事実なのだけれども、参加者の多くは、報酬目当てではなく、「仲間がほしい」とか「何か大きな組織に所属したい」という気持ちがあるのではなかろうか。
今の世の中って、ネットが発達し、「おひとりさま」がある程度市民権を得たことによって、「ひとりでも生きやすくなった」のは事実なんですよ。
その一方で、「ひとりでいることの劣等感」みたいなものが煽られている面もある。
格差社会で、毎日3万円の鮨を食べるのが当たり前の人がいれば、スーパーの半額商品で食いつないでいる人もいる。
そしてそれは、SNSなどで可視化されている。
そもそも、「フォロワーの数」や「コメント数」などで、経済的な格差だけではなくて、「つながり格差」までもがデジタル化されている。
お金はなくても人間関係は豊か、とは限らない、というのが、わかりやすく明示されているわけです。
地方に住んで、昔からの仲間とつるんで、そんなにお金がなくてもそれなりに楽しくやっている人たちは、オンラインサロンに見向きもしない。
もちろん、セミナーなどに出席するのに不便、というのはあるのだろうけど。
(たまに、仲間のひとりがねずみ講ビジネスにハマって、周囲を感染させようとしていくケースはあります)
いろんなことが自由になって、しがらみが少なくなった社会というのは、生きやすいのと同時に、「自分が何者であるか、わかりづらくなる」のだと思うのです。
孤独であることが、可視化されやすい社会、ともいえる。
周りは「気にしないよ」と言ってくれても、そういうふうに気を遣われることが、本人にとっては重荷になることもある。
「自己紹介してください」
そう言われたとき、自分を端的に語る言葉があるだろうか?
宗教は怖いけど、オンラインサロンなら、部活の延長みたいなものだろう、という感覚で、参加している人も多いのだと思います。
「子ども会」とか「町内会」に入るくらいなら、オンラインサロンのほうが、しがらみも少ないし、何か自分が前向きになったような気もするし。
個人的には、オンラインサロンが「悪」と言い切れるかというと、「個人的にはお薦めはしないけれど、いまの世の中の『仲間づくり』の方法としては、入るところを選べば、そんなに悪質でもなく、大部分の新興宗教よりはマシ」ではないかと思います。
何にも所属しないで生きる、というのは、思ったほど簡単でもラクでもない。
ただし、月謝が安くても、すぐに「学校なんて必要ない」とか「会社なんて辞めろ」なんてロクでもない思想を吹き込むようなサロンは人生の害悪でしかないので、絶対にやめましょう。
そんなこと言っているセミナー主は、みんな高偏差値の大学を出ているし、自分が勤めていた(経営していた)会社の人脈をうまく利用している人ばかりです。
そもそも、彼ら自身は他人が運営しているサロンで何かを学んだことはありません。
作家の原田宗典さんが、「小説家になれる人は、『どうしたら小説家になれますか?』と他者に質問する前に、その出来はさておき、まず自分で作品を書きはじめる」と仰っていました。
そういう意味では、イケダハヤトさんも、はあちゅうさんも、西野亮廣さんも、堀江貴文さんも、「まず、自分でやりはじめずにはいられなかった人たち」なんですよ。
原田宗典さんや中島らもさんのように、通っていたコピーライティングの教室で講師に気に入られて、丁稚奉公しながらいろいろ教えてもらった、という例もありますので、先駆者について学ぶというのも、無意味ではないことを申し添えておきます。ただし、そういうのは団塊ジュニア世代まで、という印象も僕は持っています。いまは、本当に才能のある人は、ネット公募やSNSなどで世に出られる時代ですから。
正直、同じ金額を払うのであれば、近所の音楽教室とか、英会話教室に通ったほうが良いんじゃない?と僕は思う。
でも、僕自身もそういう教室に今から通おう、という気概はない。
「いい歳して、そんな手習いをやってもねえ」って言われるだろうし。
ネットって、人に「何もやっていないのに、何かをやった気分にさせるツール」なんですよ。
オンラインサロンに入れば、全てうまくいく、とか、何かから逃れるためにサロンに入ってみよう、という人は、やめたほうがいい。
自分の目的を達成するための手段のひとつと割り切って、主催者を利用してやろう、という人には、それなりの価値があるのだろうけど。
まあ、こうしてオンラインサロンについても、多くの人が内部・外部から検証できる時代になったのは、ネットの良い面だと思っています。
オウムのときは、あんなことになるまで、みんな知らなかった、あるいは、報道している人たちも、面白おかしく語って視聴率を稼ぐだけだったのだから。
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