いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

さくらももこ先生と、たまちゃんのお父さんのライカのカメラの話


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 これを「はてなブックマーク」で見つけたときには、「ああ、『まるちゃんのLINEスタンプが出ました!』とかいう宣伝か」と思ったのです。
 それにしては、なんかブックマークがたくさんついているな、とも。
 何かトラブルでもあったのか?と思いつつクリックすると、さくらももこ先生(僕にとって、漫画家はみんな「先生」なのです。『コロコロコミック』『週刊少年ジャンプ』直撃世代なので)の訃報でした。享年53歳。僕とそんなに変わらない年齢です。僕の母親も50代、乳がんで亡くなったことを思い出しました。20年前から乳がんの治療は劇的に進歩しているはずなのに……大ベストセラーとなったエッセイ集『もものかんづめ』でのさくら先生は、健康マニアみたいなところがあって、それが高じて飲尿療法にハマっていたことを書いておられます。個人的には(医学の世界のコンセンサスとしても)おしっこを飲んでも身体に良いということはないと考えていますが、そういう話を当時、若い女性が赤裸々に書いていたことにびっくりしたものでした。
 さくらももこ先生のエッセイは、あまりにも売れすぎてしまったがために、一過性の流行りもののようにみられてしまうことも多いけれど、発売当時も、今読んでもすごく面白いのです。
 いまでは「ほのぼのファミリーアニメ」みたいな語られ方をしているアニメの『ちびまる子ちゃん』ですが、30年くらい前(もう放送開始から29年も経つのですね)、僕はこのアニメがまだ大人気になる前に偶然観て、驚いたのです。
 子どもの後ろ暗い打算や恨み妬み嫉みをこんなにちゃんと記憶していて、ギリギリ笑いにできるネタに昇華できるなんてすごい!と。
 内心では「これは僕にはわかるけれど、みんなには受け入れられないのではないか」って思っていました。
 ところが、アニメはすぐに大きな話題になり、さくらさんも「時のひと」としてもてはやされ、オールナイトニッポンのパーソナリティもつとめておられたんですよね。
 今から思うと、『ちびまる子ちゃん』や『もものかんづめ』というのは、平成の「身の丈にあった本音の時代」の象徴だったのかもしれません。
 もう、子どもらしさや女らしさみたいなものの呪縛から、解放されても良いんじゃないか、っていう。
ちびまる子ちゃん』は、「みんなにはわからないかもしれないけれど、自分には、これ、わかる!」と受け手に思わせる塩梅のコンテンツが、結果的にはこんなに多くの人に愛されることを証明した、とも言えるでしょう。

 さくらももこ先生は、一時期、有名人との交遊関係や新しい商売(それも面白半分や付き合いでやってみたようなもの)をネタに本を量産されていて、僕は正直なところ、「粗製乱造しているなあ」と感じていましたし、「いろんなことに手を出して、なんか生き急いでいるのか、思いがけず有名になって、舞い上がっているのか」なんて白眼視してもいたのです。
 この訃報を知って、本人はまさかこんなに早逝してしまうとは思っていなかっただろうけど、なんらかの予感があって、やれることを全部やりつくそうとしていたのだろうか、とも考えたんですよね。
 漫画家、作家として人気を極め、結婚、出産、離婚、育児、作詞、ラジオ番組のパーソナリティにさまざまな有名人との交遊、会社経営にサイドビジネス……
 なかには、怪しいものもあったし、正しいことばかりをやっていたわけではないとも思う。
でも、そういうさまざまなことの、ほとんどすべてを自分の作品のネタに昇華して、さくらももこ先生は、走り続けてきた。


 この訃報を知って、僕は、さくらももこ先生が書いた、ある文章を思い出しました。

『ももこの21世紀日記 N’04』 (さくらももこ著・幻冬舎文庫)より。


(2004年、さくらさんが親友・たまちゃんと15年ぶりに会ったときのエピソードです)


 たまちゃんが、アメリカに帰る前に、また東京に来てくれた。それで、大変なものを私にくれた。それは何かというと、たまちゃんのお父さんのライカのカメラをくれたのである。たまちゃんのお父さんは、数年前に亡くなったのだが、その遺品の中から、たまちゃんと御家族の皆さんが「やっぱり、ももちゃんにはライカのカメラだよね」と選んでくれたのだ。たまちゃんの家族にとっても、いっぱい思い出のある大切なカメラなのに、私がもらってしまっていいのだろうか……と思ったのだが、たまちゃんは「うちのお父さん、ももちゃんが描いてくれた事をすごく喜んでいたから、ライカのカメラをももちゃんにもらってもらえる事もすごく喜んでいると思うよ」と言ってくれた。胸がじーーんとした。たまちゃんのお父さんのライカのカメラ、ずっと大事に飾っておくよ。


 僕もこの話をよんで、胸がじーんとしてしまいました。もちろん僕はさくらさんにも「たまちゃんのお父さん」にも直接の面識はないのですけど、たまちゃん一家の「感謝の気持ち」が、この贈り物に込められているのがものすごく伝わってきたので。

 あたりまえの話ではあるのですが、『ちびまる子ちゃん』の中ではずっと変わらず、優しくたまちゃんとまる子を見守ってくれている「たまちゃんのお父さん」も、現実では確実に年を取っていってしまっていたのです。
 もうこの世に存在しない人が、漫画やテレビの中で、ずっと昔と同じ姿で生き続けているというのは、考えてみればすごく不思議な話ですよね。
 『ちびまる子ちゃん』に出てくる、たまちゃんをはじめとする「登場人物」たちは、どんな気持ちであの「国民的人気マンガ」を読んでいたのか、もしかしたら、「人の話で金稼ぎやがって!」なんて怒ったりしている人もいるのではないか、なんてひねくれたことも僕は想像してしまうのです。
 一時期、『ちびまる子ちゃん』のキャラクターのモデルになった人たちの「実物」がいろいろなメディアでとりあげられていましたが、まる子の親友だった「たまちゃん」はほとんど表に出ることがなく、もしかしたら、何か気まずい関係になるようなことがあったのかな……などと勝手に思い込んだりもしていたのです。

 このとき、さくらももこさんと「たまちゃん」は15年ぶりの再会だったそうですから、あの「ちびまる子ちゃんで描かれている時代」以降は、さくらさんと「たまちゃんのお父さん」は、そんなに頻繁に交流していたわけではないと思われます。
 それでも、たまちゃんとその家族は、お父さんがあんなに大切にしていたライカのカメラ(ライカM3、という機種だそうです)を「遺品」としてさくらさんに贈ることに決めたのです。

 たぶん、「たまちゃんのお父さん」は、もし娘が後の「さくらももこ」の友達でなければ、「ごく普通の優しいカメラ好きのお父さん」として、穏やかな一生を過ごしたはずです。もちろん、それはそれで素晴らしい人生だと僕も思います。
 ちょっとした偶然で「たまちゃんのお父さん」の姿は、多くの人々に知られ、今も愛され続けているのです。僕も「ああいうお父さんっていいよなあ」と同性ながら感じますし、あのお父さんなら、自分がああやってマンガのモデルにされているのを、かなり照れながらも喜ばれていたんじゃないかという気がします。


 本当に、人生って不思議なものですね。
 「たまちゃんのお父さん」のライカのカメラを見ていたときの子供時代のまる子は、そのカメラがこうして「形見」として自分の手元にやってくるなんて、想像もしていなかっただろうから。


 冒頭の「お知らせ」の最後に、こう書かれています。

作品を描けること、それを楽しんで頂けることをいつも感謝していました。
これからも皆様に楽しんで頂けることが、さくらももこと私達の願いであり喜びです。


 ずっと、自分の人生をネタにして、読者にサービスすることを厭わなかったさくらももこ先生が、乳がんのことは明かさずに仕事を続けていた。がんという病気があまりにも重すぎたのかもしれないけれど、さくら先生は、自分の作品やキャラクターたちを、自分が去ったあともみんなに「楽しんでもらう」ために、自分の病気に関するつらい話は描かない、知られないようにしていたのではないか、とも思うのです。
 
 さくらももこ先生のあまりにも若すぎる死は悲しいけれど、作品やキャラクターは、これからもずっと生き続ける。
ドラえもん』や『クレヨンしんちゃん』がそうであるように、原作者がいなくなっても、その思いを受け継いだ人たちが、生かし続ける。
 53年は、いまの人間の寿命としては短いし、いろんなこともあったみたいだけれど、さくらももこ先生は、幸せな人生をおくったと思いたいし、たぶん、そうだったはずです。


 さくらももこ先生の漫画やエッセイ、ずっと大事に読み継いでいくよ。


fujipon.hatenadiary.com

ももこの21世紀日記〈N’04〉 (幻冬舎文庫)

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もものかんづめ (集英社文庫)

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ひとりずもう (小学館文庫)

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