参考リンク(1):米29歳女性をめぐる「安楽死」大論争:「尊厳をもって生きる」こと(新潮社フォーサイト/ハフィントンポスト)
米29歳女性をめぐる「安楽死」大論争:「尊厳をもって生きる」こと | 新潮社フォーサイト
参考リンク(2):米国の安楽死問題 医者の余命宣告はそんなに当たらない(中村ゆきつぐのブログ)
この脳腫瘍を患っておられた29歳女性の安楽死(尊厳死)に関しては、日本のメディアでも大きく採り上げられていました。
参考リンク(1)の記事を読んでいただければ、概略はわかると思います。
僕はブリタニーさんに関する報道をみて、彼女が尊厳死のための薬を内服して、命を終えた数日前に「11月1日に死ぬための薬を飲むことをためらうような発言をしていた」というのを知りました。
そして、参考リンク(2)のように、「まだ悩むような状態であるのならば、11月1日という「決行の日」にこだわる必要はないのではないか?とも思っていたんですよね。
医者の「余命の推定」は、あくまでも「同じような患者さんのなかでの平均値(あるいは中央値)」でしかありませんから、それより長生きする人も少なからずいますし。
僕が観たテレビのワイドショーのなかでも、死の数日前に迷っている彼女の症状についての発言が紹介されていました。
ブリタニーさんの選択を「自殺」と批判する人もいますが、彼女は、自分は死にたくて自殺をする人と違う、自分は死にたくない、ガンに"殺される"のだということを強調しています。
と同時に彼女は、頭蓋骨が割れるような頭痛や絶え間なく襲いかかるてんかん発作、そして会話もままならず、最愛の夫の顔を見ていながら彼の名前を考えられなくなる、といった堪えがたい現実を経験したことのない人が自分の決断を批判することは不当だと訴えるのです。
調子がいいときは、まだ人生を楽しむことが可能だった。
SNSに書き込みもできた。
でも、激しい痛みやてんかんの発作、目の前にいる人が「夫」であることはわかっても、その名前が頭に思い浮かばない、という自分の変化が、彼女を苦しめていた。
結局のところ、「このまま、自分自身をコントロールできなくなって、しばらく生き続けていくよりは、自分が自分でいられるうちに終わりにしたい」ということだったのだろう、と僕は思います。
その「選択」を尊重するしかないのだろうな、と。
もう少し人生を楽しむ時間があったのではないか、という気もするけれど、そのために、もっと苦しむ時間が増えたかもしれないし。
そもそも、「ちょうど良い瞬間に死ねる人」なんて、ごくごく少数なのです。
とはいえ、医者としては、自分が患者さんに「死ぬための薬」を処方して、それで人が死んでいくというのは、つらいだろうな、とも思います。
このニュースを聞いたのと同じ日、あるテレビ番組で、南極とかサハラ砂漠とか、世界各地の過酷なマラソン大会に出場し続けているIT企業の社長さんの話を観たんですよ。
この人はもともとインドア派だったのだけれど、一念発起してフルマラソンに参加することにして、まずやったこと。
それは、ソーシャルネットワークサービス(SNS)のTwitterで「3ヵ月後、フルマラソンに出ます」と宣言したこと。
この人は、SNSで周囲に宣言することで、自分を追い込み、見事フルマラソンを完走しました。
そこからマラソンにハマっていき、ついには、先述したような世界の「極地マラソン」にまで参加するようになったのです。
もちろん、誰もがこんな「有言実行」可能ではないのでしょうけど、SNSというのは、こんなふうに「自分の発言で、自分自身を規定してしまう」ところがあるのです。
これは、うまく使えれば有用なのだろうけれど、場合によっては、自分を追い詰めてしまうことにもなりかねません。
僕は思うのです。
ブリタニーさんは、もし、Facebookで「11月1日」と宣言していなかったら、あの日に死に至る薬を飲んだだろうか?と。
もちろん、死ななかったからといって、それを正面きって責めるような人はいないはずです。
亡くなったことを喜ぶ人がいないように。
しかしながら、本人としては「多くの人の前で宣言してしまったこと」に、プレッシャーを感じていたのではないかと思われます。
自分のSNSでの発言に、自分で縛られてしまったのかもしれません。
自殺をほのめかした人が実行しない場合、日本では「死ぬ死ぬ詐欺」とか叩かれたりもします。
そりゃ、心配して、踊らされたほうは苛立ちもするでしょうけど、「じゃあ、死んでいればよかったのか?」と。
ブリトニーさんの場合は、病気による苦痛が基盤にあるので、尊厳死を延期しても「死ぬ死ぬ詐欺」なんて言う人はいなかったはずですけど。
ただ、「いつか実行するのなら、初志貫徹で11月1日に」というのは、あったんじゃないかな。
もし、SNSでの「宣言」がなければ、「もうちょっと大丈夫かな……」と思って延期しているうちに、そのタイミングを失ってしまった可能性もあります。
もちろん、そのほうが良かった、とも言い切れないのですが。
SNSがなければ、ブリトニーさんの死が、こんなに大きな議論のきっかけになることは無かった。
でも、SNSで広範囲に拡散されることによって、ブリトニーさんには第三者からの「励まし」とともに第三者への「責任」みたいなものも生まれてしまった。
このように、あまりにも大きな影響を与えてしまっているのを目のあたりにすると、SNSって怖いな、と思うんですよ。
発信する側にとっても、受信する側にとっても、あまりにも大きく、重くなりすぎることがあるんじゃないかな、って。
Facebookが食べ物や旅行などの「リア充自慢ツール」になってしまいがちなのは、こういう「重さ」への不安というのもあるのだろうなあ。