いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

日大アメフト部の「危険タックル行為」を生んだ「保身力」と「不幸な読解力」

www3.nhk.or.jp
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(この記事に「悪質なタックル」の動画あり)


 この話に関しては、すっきりしない、というか、やりばのない憤り、みたいなものを感じているのです。
 最初にネットでこの話を読んだときには、「試合に勝つために、相手のエースを『削る』(怪我をさせるのも辞さないような激しいプレーで対応する)っていうのは他の競技でもある(と言われているし)からなあ」って思っていたんですよ。
 でも、動画で「日大の危険タックル」を見て、唖然としました。
 「何これ?ラフプレーどころか、まったく試合の流れと関係のないところで、いきなり襲いかかってるだけじゃないか……」
 ものすごく不躾なのですが「もうちょっとうまくやればいいのに……」とか、ちょっと思ってしまいました(本当は、絶対やっちゃダメなんだけどさ。相手のためにも、自分自身のためにも)。

 
 どういうやりとりが行われて、当該選手がこんな危険なプレーをしたのか、実際にみたわけではないのだけれど、監督が選手に「相手のQB(クオーターバック)を壊してこい」と指示した、と報道されています。
 ひどい話だ、人間を「壊せ」だなんて。
 でも、僕はスポーツに関するドラマや映画のなかで、「いいか、お前たちは強い!無敵だ!相手をぶっ壊してこい!」というような不穏な言葉で選手たちを鼓舞する監督やコーチの姿を何度もみてきました。
 これから勝負、というところで、「いいか、相手を怪我させないように、スポーツマンシップに乗っ取った、クリーンなプレーを心掛けろよ!」なんて指導している場面は、見たことがないのです。


 スポーツを勝負事として考えるのであれば、闘争心をかきたてるのもまた、指導者の役割だとも言える。
 観客たちだって、応援しているチームのラフプレーには、けっこう寛容なことも多いのです。
 野球でも、自分のチームの主力がデッドボールを食らったら、「やり返す」のがメジャーリーグでは当たり前だそうですし、日本でも乱闘好きの野球ファンは多いのです。
 ゲッツー(ダブルプレー)崩しのための危険なスライディングも、贔屓のチームの選手がやれば「ナイスプレー」。
 今回の日大の件についても、監督のこういう指示は今回はじめて出されたものではなくて、これまでの選手は「士気をあげるための言葉なんだな」と噛み砕いて実際に危険行為は行わなかった、あるいは、「試合の流れのなかで、こんなにあからさまにではなく、相手にダメージを与えるようなプレーを故意に行っていた」という可能性が高いと僕は考えています。

 
 日大の監督だって、内心は「これはちょっと(露骨に)やりすぎ」だとは思ったのではないかなあ。
 「相手を壊してこい」というのは、前述したように、現場では、たぶん、「過激すぎる言い回し」ではない。
 「『壊せ』っていうのは、相手を精神的にも肉体的にも打ちのめすような気概でやれ、ってことですよ。まさか本当にこんなことをやるなんて……」と言われたら、「言葉遣いには気をつけてください」とでも注意するしかありません。
 実際にこんな危険なタックルをやってしまった選手も「監督の言うことは絶対」だったにせよ、「壊してしまえ」と言われたからといって、なんで本当にここまでのことをやってしまったのか……(それこそ、先輩たちは「もっとわかりにくく危険な行為をやっていた」だけかもしれないけれど)
 いまの僕の立場からみれば、「普通にプレーをして、もし監督にあれこれ言われたら、『壊せ、って仰いましたが、まさか本当にケガさせろとか、そういうわけないですよね!』とかわす」ことはできなかったのか、とか考えてしまうのですが、監督が絶対的な権限を持ち、その競技で活躍することが今の自分の全てになってしまっている選手にとっては、「そんな余裕はない」のでしょう。

 
 こういう、上司の「そういうつもりで言ったわけではない。そんなの常識で考えればわかるはずだ」と、部下の「上司の指示を自分なりに解釈してやりました」という不幸な悪魔合体で、ろくでもない結果が生まれ、どちらも「自分に責任はない」と主張するという光景は、日本の社会ではよくみられるものですよね。
 責任逃れ vs 忖度の飽くなき戦い!


 実際は、こういう状況下で、「上司の内心を想像し、過不足なく処理できる」人たちが出世していくのです。
 問題になると、たいがいは、立場が弱いほうが「切り捨てられる」ことになるのは周知のとおりです。
 たまに、こうして大きな話題になったときだけ、上司も、より大きな力によって、一緒に切り捨てられることもあるけれど。


 正直、この選手のあまりにも露骨な「危険タックル」をみると、「よっぽど素直なのか、『教科書が読めない人』なのだろうか」とも感じたのです。 
 これからは、「いいか、お前たちは強い!相手をぶっ壊せ!」と試合前に指示されたら、「その『壊せ』というのは、具体的にはどこまでの行為をさしているのでしょうか? 本当にケガをさせてもいい、という意味なのですか?」と確認したり、同意書にサインしたりするべきなのでしょう。
 こういうことが起こってしまう背景には、建前としての「スポーツマンシップ」とは別に、「勝利至上主義」というチームと観客の「本音」もあるのです。
 「正しいけれど、弱いチーム」は、評価の俎上に載ることさえない。
 「何をやっても勝てばいい」というジャギ様(by 『北斗の拳』)に根強い人気(?)があるのは、そういう実感を持っている人が少なからずいるからではなかろうか。


 人間の「保身力」の恐ろしさ、というのは、知っておいて損はないと思うんですよ。
 どんなに立派にみえる人も、本心で言っていたようにしか思えない状況でも、いざ、火の粉が自分に降りかかってくると「自分を守る」方向に動く人のほうが圧倒的に多数なのです。


安楽死を遂げるまで

安楽死を遂げるまで

 
 
 最近、この本を読んだのですが、著者は「尊厳死を実行した(とされる)」日本の医師たちにも取材をしているのです。彼らはあまり多くを語ろうとはしないのですが、終末期に苦しみ、もがいている身内の姿をみて、「先生、もう見ていられません。早くラクにしてあげてください」と家族に懇願されたら、医者の側もみるにしのびなくなってしまう。
 その結果、致命的となる薬の投与を行ってしまった、という例でも、家族はそれが「事件」になり、裁判で自分が罪に問われたり、周囲から責められるようになると「そういう意味で言ったわけじゃなかった」「医者が勝手にやったこと」だと証言が変わってしまうことが多いのです。死の直後は「ありがとうございました」と感謝の言葉を述べていたような事例でも。
 

 どんなに周りの人や組織のためを思って行動したつもりでも、それが大きな問題になれば、大部分の人や組織は、あなたを見捨てて保身に走ります。
 他人がやっているのを見ると「そんなみっともないことを」と思うのに、自分が証言台に立たされると、「自分にも家族がいるし……」「あのときは混乱していただけだ」「そんなつもりじゃなかったのに」と、いろんな言い訳を探し出して、けっこうあっさり「変節」してしまう。
 だから、もし選択を迫られたときには、どんなにその組織に借りがあっても、「人間として、やるべきではない」ことは、やらないほうがいい。あるいは、覚悟のうえで、組織や集団に殉じるしかない。
 ただ、戦争とかだと、「人間として云々」なんていうのは、寝言ですよね、きっと。
 スポーツだって、「ワールドカップは、国と国との戦争なんだ」なんて言っている人がいるのだよなあ。


 申し添えておくと、スポーツの現場においても、安全への意識って、最近はすごく向上してきているのです。ようやく、と言うべきかもしれませんが。
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 学校での柔道の授業で死亡事故が多いことは、著者の内田良先生たちの提言がきっかけとなり、近年メディアで報じ続けられてきましたが、2012年以降は、突然「ゼロ件」になったのだそうです。
 2009年に4件、2010年に7件(町道場での小学生の死亡2件を含む)、2011年に3件と死亡事故が続いていたにもかかわらず。
 

 それでは、なぜ死亡事故がゼロになったのか。その答えは、簡単である。学校の部活動をはじめとする柔道の指導現場で、頭部の外傷に対する意識が高まったからである。
 学校柔道の事故実態を私が公にした当時、全柔連の医科学委員会副委員長二村雄次氏は、このデータを委員たちは驚きをもって受けとめたと言う。それも無理はない。柔道に関わる医師20〜30人で構成される医科学委員会において、当時、頭部外傷の専門家である脳神経外科医は一人もいなかったのである。
 柔道界において、頭部外傷への関心は、皆無に近かった。ましてや、学校の柔道部顧問や保健体育科教師が、頭部外傷に対する知識も危機感も持ち合わせているはずがない。


 2010年から、指導者への講習や学校での指導教本の作成や投げ技のリスクへの周知など、安全対策がとられはじめ、その効果により、柔道の死亡事故は激減したのです。
 「柔道は危険」なのではなく、「柔道のなかの危険な面、注意しなければならないところ」を知って、あらかじめ対策を立てておくだけで、こんなに違う。
 
 どんなスポーツにだって、「リスク」はあります。
 人がやることだから、思わぬ事故の可能性が、つきまとっている。
 でも、それを理由に、「リスクを下げるためにできる、簡単なこと」に、誰も手をつけようとしなかった。
「柔道とは、そういうもの」だと思いこんでいた。
 海外(いまや日本以上の「柔道大国」であるフランスの事例が紹介されています)では、柔道における頭部外傷のリスクは周知されていて、死亡事故はほとんど起きていなかったのに。


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 この関西学院大学の会見を読んでみると、日本国内のアメリカンフットボール界でも、競技の安全性を高め、選手の身体を守るために、さまざまな取り組みがなされていることがわかります。それはきちんと評価するべきです。
 ただ、どんなにシステムを整えても、指導者やプレイヤーの意識が追い付かなければ、リスクは劇的には下がらない。
 今回の件に関しては、危険なタックルを受けた選手が、一生後遺症が残るような怪我にはならなかったのは、本当に不幸中の幸いだったと思うのです。
 被害者はもちろんのこと、加害者にとっても。
 

 僕は「他人を踏み台にして自由に生きる」ことをアピールしている人は大嫌いだけれど、「自分が所属する組織の都合に流さそうなときに、その呪縛を取っ払って考え直してみる」ことができやすくなったのは、インターネットによる世の中の変化だと感じています。
「言葉の意味を読み取る」っていうのは、本当に難しいし、その難しさが悪用されることも多い。
 その場では正しく読解できていたはずなのに、後付けで「そういうつもりじゃなかった」なんて言われることもあるし。
 それでも、言葉でしか伝えられないことばかり、なのだよなあ。


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