いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

横綱・白鵬さんの「会見拒否」と「人それぞれの事情」

参考リンク(1):もう誰もマスコミを信じない 横綱・白鵬の告白(by 木村正人のロンドンでつぶやいたろう)


参考リンク(2):みなさんへ(by 白鵬オフィシャルブログ)

 
 横綱白鵬の「千秋楽翌日の会見拒否」の理由が、奥様の流産であったことが、自身のブログで明かされました。
 流産で奥様も横綱もショックを受けており、そのことについて話せる状態ではないが、会見すると、その話もメディアから出てくるだろうと思ったから、と。
 それはたしかにつらいというか、人前に出たくなかっただろうなあ。


 それを、メディアは人種差別発言が原因だとか、朝青龍化して傲慢になったとか、根拠もなく報道してきたわけです。
 そして、僕も「白鵬、真面目だと聞いていたのに、そんなふうに変わってしまったのか……」と、半分くらい考えていました。


 あれこれ邪推して横綱をバッシングしたメディアは、酷い(その酷い内容については、参考リンク(1)のエントリで詳しく紹介されています)。
 
 
 ただ、彼らの立場からすると「なぜ、会見をやらないんだ!」と不信感を抱いたのもわかるのです。
 彼らは「本当の理由」を知らなかったのだから。
 これまでの「慣例」となっていた「優勝翌日の会見」で、相撲協会でも「やるのが当たり前」だと見なされていたようです。
 流産という事実を知らないメディア側からすれば、「おめでたいこと」なのだから、という感覚で、「優勝に、奥様の懐妊に、良い事づくめですね」とか、聞くつもりだったはず。
 もし順調であれば、白鵬さんだって、「家族のために、これからもがんばります」と、会見で笑顔を見せたのではないでしょうか。
 「流産」って、誰にでもありうる話だけれど、それを「想定」するのって、そんなに簡単なことじゃありません。
 多くの人が「いまの日本での妊娠・出産は安全」だと思っている、あるいは、そう思いたがっている。
 

 邪推で白鵬を批判したマスメディアは、きちんと謝罪すべきです。
 でも、「理由がわからず、会見拒否をされた」時点では、そのことに疑問を呈するのは当然です。
 そこで「何か事情があるんだろうな」と思っても、相手がそれを教えてくれない限りは、どうしようもない。
 メディア側の「困惑」も当然のことでしょう。
 とはいえ、白鵬さんが、その時点で「言いたくない」のもよくわかるのです。
 なんというか、世の中には、誰のせいでもないのに、どうしようもなくなってしまうことがあるのだよな、としか考えようがないことがある。
 
 
 こういうことって、きっと僕の日常にも少なからずあるのです。
「なんであの人、あんなに機嫌が悪いのだろう?」とか、「なんかボーッとしてるよね、やる気ないんじゃない?」とか感じてしまう相手は、恋人と別れたばかりだったり、親の癌がみつかったり、精神的な病だったりすることが少なくないはず。
 それでも、相手が深いつきあいの人でなければ、「その理由」がわかって、「そういう事情ならば、不機嫌だったり、ボーッとしていても仕方ないよね」と「わかる」こともなく、「なんか感じ悪い人」「近寄らないようにしよう」という印象だけが残されていくのです。
 そもそも、相手がどんな事情を抱えていようと、苛立ちをぶつけられれば不快だし、仕事をしてくれなければ困るし、殴られれば痛い。


伊集院静さんの『大人の流儀』(講談社)というエッセイ集に、こんな話が出てきます。

 それから二十五年後の秋の夕暮れ、私は病院で前妻を二百日あまり看病した後、その日の正午死別していた。家族は号泣し、担当医、看護師たちは沈黙し、若かった私は混乱し、伴侶の死を実感できずにいた。
 夕刻、私は彼女の実家に一度戻らなくてはならなかった。
 信濃町の病院の周りにはマスコミがたむろしていた。彼等は私の姿を見つけたが、まだ死も知らないようだった。彼らは私に直接声をかけなかった。それまで何度か私は彼等に声を荒げていたし、手を上げそうにもなっていた。
 私は表通りに出てタクシーを拾おうとした。夕刻で空車がなかなかこなかった。
 ようやく四谷方面から空車が来た。
 私は大声を上げて車をとめた。
 その時、私は自分の少し四谷寄りに母と少年がタクシーを待っていたのに気付いた。
 タクシーは身体も声も大きな私の前で停車した。二人と視線が合った。
 私も急いでいたが、少年の目を見た時に何とはなしに、二人を手招き、
「どうぞ、気付かなかった。すみません」
と頭と下げた。
 二人はタクシーに近づき、母親が頭を下げた。そうして学生服にランドセルの少年が丁寧に帽子を取り私に頭を下げて、
「ありがとうございます」
 と目をしばたたかせて言った。
 私は救われたような気持ちになった。
 いましがた私に礼を言った少年の澄んだ声と瞳にはまぶしい未来があるのだと思った。


 あの少年は無事に生きていればすでに大人になっていよう。母親は彼の孫を抱いているかもしれない。
 私がこの話を書いたのは、自分が善行をしたことを言いたかったのではない。善行などというものはつまらぬものだ。ましてや当人が敢えてそうしたのなら鼻持ちならないものだ。
 あの時、私は何とはなしに母と少年が急いでいたように思ったのだ、そう感じたのだからまずそうだろう。電車の駅はすぐそばにあったのだから……。父親との待ち合わせか、家に待つ人に早く報告しなくてはならぬことがあったのか、その事情はわからない。
 あの母子も、私が急いでいた事情を知るよしもない。ただ私の気持ちのどこかに――もう死んでしまった人の出来事だ、今さら急いでも仕方あるまい……。
 という感情が働いたのかもしれない。
 しかしそれも動転していたから正確な感情は思い出せない。
 あの時の立場が逆で、私が少年であったら、やつれた男の事情など一生わからぬまま、いや、記憶にとめぬ遭遇でしかないのである。それが世間のすれ違いであり、他人の事情だということを私は後になって学んだ。
 人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている。


 僕はこの話が、好きなんです。いや、「好き」というか、心に留めつづけているのです。
 「人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている」ように、他人からは見える。
 「世間話としては、政治と野球の話はやめておけ」という金言があるのです。
 でも「するべきではない質問」は、それだけとは限らない。
 「ご結婚は?」「お子さんは?」というような質問が、知らないうちに相手を傷つけている(あるいは、傷つけてしまったのではないか、と自責の念に駆られてしまう)ことだってあるし、にこやかに家族の話をしている人が、その後すぐに離婚してしまった、なんて経験を持つ人もいるはずです。
 妊娠・出産に大きなリスクがあることは事実ですが、「リスクがあるから、日常会話でもそこに触れるべきではない」「それはデリカシーに欠ける行為だ」と言い切ってしまうべきなのか。
 コミュニケーションって、ある意味、他者への「おせっかい」でもあるんですよね。
 どこまで踏み込むのがセーフで、どこからがアウトなのかというのは、非常に難しい。
「何でも話せる友達」と「ズケズケとプライバシーを侵害する嫌な人」って、そんなに大きな差はないのです。
(個人的には、メディアがアスリートへのインタビューで奥様の妊娠に触れる必要は全くないとは思うのですが、「家族のサポートによってモチベーションを維持している」というアスリートだっているし、公の場で感謝を語りたい人だっているでしょう)


 誰にも語りたくないことがある。
 でも、語らないと、伝わらず、誤解されてしまうこともある。
 あのメディアの報道は酷い。
 しかしながら、あのメディアの報道こそが、典型的な「他人の目」であるというのもまた、事実なのだと思います。
 あの会見拒否を知って、「なんらかの理由があるのだろう」とは考えましたが、「奥様の流産」だとは、全く想像もしていませんでした。
 白鵬さんの家族構成すら、よく知らなかったのです。
 
 
 いまは、「それは会見したくなかっただろうし、むしろ、そんな精神状態で相撲をとりつづけ、優勝したなんて……」と思っています。
 それは「事情」を知ることができたから。
 それにしても、横綱というのは、なんて孤独で、つらい立場なのだろう。


 自分がつらい立場にいるときは、むしろ「情報公開」していったほうが、お互いにとって良いのではないか?
 もし誰かが急に理不尽な態度をとってきたときには、相手の「事情」について、想像力を働かせてみることが、お互いを救うことになるのではないか?
 そんなことも考えてはみたのですが、子供の流産というのは、「そんな冷静な判断なんて、できるわけがない」ほどの、圧倒的な濁流みたいなものなのでしょうね。
 

 僕たちはみんな白鵬の立場になることもあれば、思い込みでバッシング報道をしてしまうメディアの立場にもなってしまうのです。

 それでも、人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている。



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