いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「カラシニコフ銃」の物語

参考リンク:「カラシニコフ銃」設計者死去…紛争地域で多用(YOMIURI ONLINE)

 タス通信によると、世界の紛争地域で最も多く使われた自動小銃「AK―47」の設計者として知られ、長年にわたり旧ソ連の兵器開発に携わったミハイル・カラシニコフ氏が23日、ウラル地方のイジェフスクで死去した。
 94歳だった。
 1947年に開発された銃は、冷戦時代に旧ソ連が東欧や中国、北朝鮮など社会主義陣営の国々に供与したほか、ライセンス生産を通じ世界中に広がった。国際的な人権団体は世界に約1億丁が出回ったと推計している。


「兵器マニア」ではなくても、「カラシニコフ」という名前に聞き覚えがある人は、多いのではないでしょうか。
池上彰さんが「カラシニコフ」について、こんな話を書かれていました。

『先送りできない日本』(池上彰著・角川oneテーマ21)より。


(「砂の国のヒット商品(1)カラシニコフ」という項から)

 商品の品質と価格のたとえとして、ふさわしいかどうか疑問ではありますが、世界のゲリラや反政府勢力に人気の商品があります。世界各地のゲリラ戦で欠かせない武器としてゲリラたちに知られているのが「AK-47」(「カラシニコフ」という自動小銃)です。
 
 
 世紀の傑作といわれるカラシニコフの特徴は、「隙間だらけ」。敢えて部品と部品の間に隙間を作り、砂漠の砂が入り込んでも、弾が詰まって作動しなくなることがないように設計されています。熱帯のジャングルでも、アフリカの砂漠でも、どんなに過酷な条件下でも、すぐに使えます。非常にシンプルな作りのため誰にでも扱え、分解も組み立ても簡単、価格も手ごろ。複製も簡単ということで、模倣品も含めて圧倒的なシェアを誇っています。


 「カラシニコフ」は設計者の名前です。ロシア人技術者のミハイル・カラシニコフは、ナチスドイツとの戦いに参戦し負傷。ドイツ軍に襲撃されて味方がほぼ全滅する中でのわずかな生き残りでした。「自動小銃さえあれば、全滅しなかったはず」という無念の思いから、仲間の命を守る銃として設計したのがAK-47でした。

 
 しかし、皮肉なことに世紀の傑作は、その使いやすさから世界に広まり、いまや「核兵器よりも効率的に人を殺し続けた武器」と言われるようになりました。もしこれを日本人が設計したら、砂が入り込まないように一分の隙もない銃を作ろうとしたでしょう。実際、太平洋戦争中の日本軍の銃は、故障しやすく、兵隊たちは、毎日銃の手入れに追われていました。


 カラシニコフさんは、自らの戦争体験から「仲間の命を守るための銃」として、「AK-47」をつくったそうです。
 だからこそ、性能や精巧さよりも、扱いやすさとメンテナンスのしやすさを重視した設計にした。
 そのシンプルさから、この銃は世界中に広まることになりました。
 そして、ゲリラ組織や犯罪者にも「愛用」されているのです。


 池上さんは、この話を「道具というのは、高性能や精密さを重視するだけでなく、使われる状況に適応させることが必要なのだ」という話の一例として紹介されていました。
 「性能を重視するあまり、取り扱いが難しく、高価な機械」をつくりがちな日本の「ものづくり」への警鐘をこめて。

 
 カラシニコフさんは、自分が設計した意図をこえて、自分の手に届かないところで、どんどん人を殺している銃のことを、どんな気持ちでみていたのでしょうか。
 カラシニコフ銃は、犯罪や戦争に使われているけれど、費用も装備も脆弱な反体制派の人々にとっては、たしかに「福音」ではあった。
 彼がつくったものは「弱者が抵抗するための武器」だったのか、それとも「単なる人殺しの道具」だったのか。
 カラシニコフ銃によって、若くして亡くなった人の数を考えれば、彼自身が94歳まで生きたということには、「命って皮肉なものだな」とか、考えてしまうんですよね。
 もちろんそれは「道具の責任ではなくて、使う人の責任」なのだろうけど。

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